後ろの正面だぁれ


――逃げても逃げても、

「、っは……、どうして、俺が、こんな……っ」

長時間走り続けた足がもつれる。
酷使している両脚も呼吸ももう限界に近い。
それでも耳に蔓延るブーツの音が俺の背を強く押した。

暗い角を曲がり壁に手を付いて、乱れた制服の胸元を掴む。
足りなさすぎる酸素の所為で少し眩暈がするけれど、目頭に力を入れ何とか視界を保つ。

(ここまで来ればきっと――……)

もうどれくらい走ったか分からない。近くにある窓の外は真っ暗だ。
逃げて、逃げて、逃げて逃げて逃げて。
あのブーツの音と柔らかい声から逃げ続けているけれど、姿は見えないのにまだ彼の射程圏にいる気になってしまうのはどうしてなんだろう。

そう考えただけで情けなくもブルッと身震いしてしまった。
彼が……少佐が隊長だった時からずっと感じていた底冷えするような狂気は、ルカが来てから剥き出しに、且つ増した気がする。

あの柔和な笑みの下に潜む、歪曲した感情が。

「――見ーつけた……」
「っ!?」

すぐ後ろから耳元で囁かれた瞬間、反応するより先にズルッと身体を引かれてしまう。
抵抗する間もなく真っ暗な場所に引き込まれたけれど、バタンと閉まったドアのおかげでここがどこかの一室だとは理解出来た。

「、カウフマン少佐……っ」
「ふふ…駄目だよルイ。ゲーム中に油断は禁物だろ?」
「ゲームのつもりはありません! どうしてこんな……っ、新手の嫌がらせですか?」

月明かりすら届かない闇の中では少佐の姿は影としてしか見えない。
だけど俺の身体は無意識にじりじりと後退して、その影から距離を取っていた。

危険だと脳の奥で警鐘が鳴る。
この人はおかしい。
もう根底から狂ってしまってるんだ。こんな人気のない暗闇で二人きりだなんて、殺されてもおかしくない状況だ――。

「そんなに怯えなくても傷付けたりしないよ?」
「怯えてなんか…」
「だってほら……もう、」
「もう? ……っ!? あ…」

言葉と同時にトン、と背中に固い感触がして後退が強制的に出来なくなってしまった。
案外狭い部屋なのかもしれないと、背中にぶつかった壁へ小さく舌打ちをした。

コツン、コツン。
一歩一歩近付いてくる空耳じゃないブーツの音にぎゅっと唇を噛む。
こんなわけのわからない状況で死ぬわけには……俺にはまだ、ルカを助けるという使命が残っているのに――……!

「つまらないなぁ。君ならもう少し上手く逃げるかと思ったんだけど」
「どうして追いかけるんですか。俺、あなたに何か」

闇の中、少佐が声を出さず微笑んだのが分かった。
ただそれだけだ。
それだけなのに俺は、身動きが取れなくなってしまった。

「……どうしてなんて。そんなの簡単だよ、ルイ」

微風が頬を撫でる。
それは少佐が手を伸ばしたからだと知った時にはもう遅かった。
氷のような指先が俺の頬に触れ、今まで気配でしか感じられなかった少佐の顔が、少し身じろげば鼻先が触れる程近付く。

「僕はね。羊になりたいとは思わないんだ」

狩る側に回りたいとも思わないけれど。

そう囁き、俺の右耳に舌を差し込み、わざとらしい粘着質な音を立て――笑った。

恐怖とは違うもので身体が震える。勿論快感なんかじゃない。もっともっと、根元的な何かを揺さぶらているような――自分の感覚すらまともに掴めない程、俺は混乱の中にいるようで……。

シャツのボタンを外されていく微かな音すら響き渡ってしまうくらい静かな室内。
耳から抜かれた舌が首筋を伝い、解かれた俺自身のタイで両手首を縛られ、隊服の上着が落とされる頃には、俺の中にある種の諦めのようなものが浮かんでいた。

「ルイ」
「……はい」
「君の弟の代わりに、君をあいしてあげる」

笑いを含むその言葉の意味が掴めなかった。
俺が解らないのを解っているかのように、なのに少佐はそれ以上語ろうとはせず、氷のような手の平で胸元に触れた。

隊規に反する背徳行為――。

息を、感情を乱されながら。
拒絶や罵倒や呪いの言葉すら微笑みに封じられながら。
屈辱にまみれた心はどんどん黒さを増していくのに、声を出さないよう食いしばった歯の隙間からは次から次へとか細い吐息が漏れる。

(弟の……ルカの、代わり、なんて――)

頭上で固定され動かない両手が徐々に痺れてきた。
脚に力が入らなくなって、壁伝いにずるずると沈み込んでしまって。

足元から見上げた少佐の顔はさっき以上に影がかかり見えない。
それでも、やはり微笑んでいるだろうことは解る。

「――やーめた」
「っ! は……?」
「だって君、まったく抵抗しないから。もっと追い詰めないと駄目みたいだ」

これ以上どう追い詰めると言うんだ――

呼吸を整えながら精一杯の力を目に込め、見下ろしている少佐を睨み付ける。
纏められている両手首に指先を最小限の動きで這わせ、結び目を解こうと足掻いてみても、爪先が掠る程度で到底届かない。

こんな抵抗を気付かれたらどうなることか。
限界まで張り詰めた神経が切れそうになる刹那、徐に少佐が目の前にしゃがみビクッと肩が跳ねた。

「解けないだろう? 結構きつく結んだからね」
「っ」
「ふふ……図星? 貸して。解いてあげる」

自分で縛ったくせに。
次の行動がまったく読めないこの人に疑念が渦巻くも、今し方吐いた言葉通り、俺がどんなに解こうと足掻いても無駄だった結び目をいとも簡単に解き、あまつさえ自分が外したシャツのボタンすら元通り止めていく始末。

「貴方、は……何を、考えているんですか……」
「ふふ…何だと思う?」
「っ、こんな事が密告でもされたら……っ」
「はい、出来た。上着とタイは自分で出来るよね」
「カウフマン少佐っ!」

はぐらかすなと短く叫び、自由になった手でタイを差し出してきた少佐の手を振り払う。

ぱさり、乾いた音がした。
落ちたタイを一瞥して、まだ距離の近い少佐を睨む。

「ルカへの当て付け、ですか」
「まさか。これでも僕は彼を気に入ってるんだよ? それは君だって知ってるはずじゃないか」
「じゃあどうしてこんな……っ」
「ルイ? ほら、もう動けるだろう? ……早く逃げなよ」

暗闇に慣れてきた目に、スッと横へ伸びた少佐の腕が見えた。

(っ! そうだ……っ、追求なんていつでもいい……!)

ハッとしてすぐ、弛緩している脚に力を入れ立ち上がり、少佐が指したほうへよろよろと歩き出す。
走りたいのにそれが出来そうもない脚に舌打ちをした。こんな場所今すぐ飛び出して、早く遠くへ……少佐のいない場所へ――……。

「――次は油断しちゃいけないよ、ルイ」

手探りで見つけ出した扉のノブに掛けた手がビクッと硬直し、止まってしまう。
背後でクスクスと愉しげに笑う少佐の気配は動かないままなのに、多少距離はある筈なのに、何故か喉元に手を絡められているような恐怖を覚えた。

冷や汗が背中を伝う。

「上手に逃げられたら、ご褒美をあげる――」

愉しげなその声から逃げるように開けた扉の向こうへ踏み出し、もう二度と開かないよう願いながら力一杯乱暴にそれを閉めた。

「っは……ぁ、は……っ、……っ」

解放された筈なのに全身の震えが止まらない。
手が、ノブから離れない。
耳にはまだあの柔らかな声が、身体にはまだあの氷のような指の感触が残ってる。

「っ、逃げ……ない、と……!」

胸を突き破ってしまうんじゃと不安を覚えるほど、暴力的なまでに激しく叩く心臓が警告音を鳴らす。

俺の名を呼ぶ柔らかい声が、
あのブーツの音が、
また耳の奥の奥から聞こえてきた。


後ろの正面だぁれ
“壊さないように愛すのは酷く困難”


だいぶ前に書いた小話。
アベルはこういう悪戯好きそうだなって。