いとしきものたち



※緋藍ドラマCDネタバレ前提です



魂の底から排出したような重苦しい溜息が零れた。

「ねえ兄貴? 兄貴は苺ショートのほうが好きだよね?」

 一方は右腕に絡みつき、可愛らしい笑みで首を傾げる。

「ふん。汝の眼は節穴か。藍丸の好物は三百年前より金鍔一辺倒と決まっておる。出直せ、小童」

 そしてもう一方は俺を抱え込んだまま、背後より硬い骨――おそらく顎――を肩に食い込ませてくる。ついでに腰も引き寄せられた。
 ずず……と重心が後ろへ傾いた途端、引き千切らんばかりの力で右腕を引かれ、油断していた俺の口からは間抜けな悲鳴が飛び出した。 お構いなしで引っ張り続ける弟・ほむらのいやに挑戦的な双眼は、俺を素通りして俺の背後の奴へと向けられている。
 その黒の瞳の中には、気怠げに俺を抱く白き半身の姿があった。

「三百年も同じ物食べてたらさすがに飽きるでしょ。そんなことくらい考えなくても普通はわかるよ。ねえ兄貴? 兄貴だってたまには他の甘い物を食べたいよね?」
「藍丸。汝が云えぬのならば我が代わりに云ってやってもよいのだぞ。此処は我等の家。部外者は早々に出て行け、と」
「部外者なんかじゃない! 僕は藍丸の実弟だよ!? いつまで部外者扱いする気なんだよっ」
「つい先頃まで藍丸を屠らんとしていた輩の台詞とは思えぬな。我の気が柔らかな内にさっさと去れ。汝は信が置けぬ」
「馬鹿の一つ覚えみたいに金鍔しか挙げられないような甲斐性無しに言われたくないね!」
「ほう……。余程消し炭になりたいと――」
「だああああっ! お前らいい加減にしやがれ! 人を挟んでごちゃごちゃしょうもねえ小競り合いすんじゃねえ!」

 たまらずおさまそうにない言い合いを大声で遮り、二人を振り落して立ち上がる。
 肩で息をしながら振り返れば、俺一人分の隙間が空いたソファの端と中央に、そっくり同じ不満げな顔二つがあった。
 揃って此方を見上げる二人をきつく睨む。するとほむらは耐えかねたように目を逸らし、逆に緋王は不敵に笑う。 身内も身内、血を分けた兄弟だというのにどうしてこうも見せる反応が違うのか。とりわけこの半身の絶対の自信はどこから沸き起こるものなのか。三百年共にいても俺にはさっぱりだ。

 ほむらが俺の弟だと名乗りを上げて暫く。
 三度目の転生を果たした母さんと親父の間に子供がいたというだけでも結構な驚きだったけれど、以前誘拐騒ぎが起こった時助けた学生が、 俺の弟に当たるその子供だったということに何より驚いた。
 弟――行方知れずの親父を除き、血縁と言える存在が緋王ただ一人だった俺には縁のないものと思っていたのに。

 そんな突然現れた《弟》への対応に戸惑ったのは俺のみで、半身である緋王は物知り顔をしていた。
 対応に迷う俺を制した後、俺に対して何故か好戦的な態度を取る弟に対し、こう言い放ったのだ。 「わざわざ殺されに来るとは、汝も余程暇と見える。或いは兄弟の情でも芽生えたか」と。言い終えた直後、ほむらの怒りの矛先が俺から緋王へ移ったのは言うまでもない。

 以来この二人は何かにつけてぶつかるようになった。
 それに反し、ほむらの俺に対する敵意はいつの間にか消え失せ、兄と慕ってくれるようになった。 ひと月に一度は必ず浅草へと顔を出し、俺達の屋敷に寝泊りをする。帰る時になると淋しそうに俺の腕にしがみつくのが定番になるほど、 今までの空白を埋めるように兄弟としての距離を近づけていた。

 ただやはり半身である緋王とはどうにもウマが合わないのか、それとも緋王の気質故か、邂逅の時よりほむらの頑なな態度は変わらない。緋王の不遜も相変わらずだ。
 譲歩のじょの字も見せない二人の不仲には、情が深く人一倍面倒見のいい雷王すらも匙を投げていたりする。
 緋王が右と言えばほむらは左と言う。大抵はそんなどうでもいいような張り合いで、とばっちりを食うのはいつも俺。 運が良ければ雷王や弧白、桃箒ら一紋の奴らが間に入ってくれるものの、運の神に見放された時は、小競り合いが焔を伴う戦闘へと変わってしまう。
 そこまでいくと最早俺にしか止めることが出来ず、心労は嵩むばかりなのだ。

「ったく……お前らもいい加減に歩み寄る努力をしろ。ていうか、いちいち俺を巻き込むんじゃねえ」

 腰に両手を当て、嘆息しながらぼやく。疲労の滲む呟きは俺達以外に気配のない居間に虚しく落ち、拡散することなく消えた。
 この世にたった三人きりの兄弟なんだ、いがみ合わず仲良くできればそれに越したことはない――それが俺の掛け値なしの本心だけれど、 口にすることなく飲み込む。無用な争いの種を蒔くつもりはさらさら無い。

 眉間の皺を揉み解しつつソファの二人を交互に見、膨れっ面のほむらで止めた。と、叱られた子犬のような目と視線がかち合い、一瞬心が揺れてしまう。
 そういう目は卑怯だろ……いや、しっかりしろ俺。ここは兄として家長として、そして浅草の羽織としてビシッと言っておかねえと。

 大袈裟な咳払い一つで揺らぐ心を叱咤する。緋王の嘲笑が聞こえた気がするけれど聞こえない振りだ。

「ほむら。お前は喧嘩する為に浅草くんだりまで来たのか? 違ぇだろ? 明日には帰んなきゃならねえなら、喧嘩してる時間が惜しいんじゃねぇのか」
「う……」

 図星とばかりに息を詰めた弟へ大きく頷き、次は我関せずの態度でいる緋王を窺う。

「緋王。お前もちぃっとは大人になれ。他人ならともかく、こいつは俺たちの弟なんだぞ? な?」

 気持ちばかり柔らかな口調で問いかけてみると、くいくいと人差し指を曲げ「来い」と視線で伝えられた。 同じ様に「なんだ」と意を両目に込める。けれどそれについての解答は得られず、ただ指先で招かれるのみ。

 相も変わらずな横柄さに目を平らにしながらも、仕方なく緋王へ歩み寄る。元より言う程距離はなく、たったの二歩で手の届く距離へと戻れた。

 燃え盛る赤い瞳が俺を捉える。俺でもある筈の半身はどこまでも白く、赤く、鮮やかで。

 緋王を認識したばかりの頃も、こうして他者として向き合えるようになった今も、俺はこの眼にめっぽう弱い。
 合わせているだけで吸い込まれそうになるんだ。これが俺でもあるなんて、到底――。

 酩酊に近い感覚の中、緋王の手が伸び、俺の頬に触れた。
 鼓動も体温も共有している筈なのに、俺の温度よりいくらか低く感じる掌。戦いの数や破壊的な性分を思えば、傷一つ無いこの掌は、緋王が絶対の力を有しているという証なのかもしれない。

「……藍丸」
「――……」

 ただ一言、名を呼ばれただけなのに。
 たったそれだけで俺の声は喉奥へ沈んでしまった。

 もしかすると、封じの術の類をかけられたのかも――。

 瞬き一つすら出来ず、頬を、目尻を、涙袋を辿る指先の感触をひたすらに追う。肌の上を滑るごとに熱くなっていくみたいだ。今はもう燃えているように熱い。
 緋王の焔がそこに宿っている。指先に、視線に全身をじっとりと炙られる。

 無意識に息を飲んでいた。
 緋王の右眼には、もう俺しか。俺の両眼にも、緋王しか。

 熱を持った人差指が下唇をなぞる。軽く押し込まれた時、体の内側が震えた。触れられることを望んでいたような反応にどうしようもなく悔しくなる。
 曲線に沿って下唇の裏側へと侵入した指が粘膜に当たる。舌に爪が触れるやいなや指は抜かれ、軽い喪失感を覚える間もなくまた挿し込まれた。

 なんてことはない、戯れ程度の緩い愛撫だ。なのに施すのが緋王というだけで、どうしてこうも煽られるのか。

 気が付くと俺も舌先を緋王の指に絡めていた。硬い爪の甘皮、指の腹、関節、余すところなく舐めていく。
 俺も緋王もお互いを見たまま。くちゅりと水音が立った瞬間顔に熱が集まった。緋王が薄ら笑う。それにさえ羞恥を煽られる。
 吐く息すらも熱い。油断するとあられもない声をあげてしまいそうだ。

 力の入らない拳を無理矢理に丸め、微かに残る理性を奮い立たせていると、緋王の目元が満足げに歪む。
 今は心身を別にしているというのに意思を読み取ったような、まるで今も繋がっているような――。

 恍惚の中、緋王がゆっくりと近づいてくる。
 避けるなんて選択肢は微塵もなかった。吐息がかかりそうな近距離で緋王は何かを囁いた。聞き取れなかったのは小声だったからじゃない。意識は唇との距離にすべて向いていて。

 今、触れる。
 俺と同じ感触、厚み、温度の唇が、今。

「――はーい、そこまで」
「ぶっ!?」
「っ」

 構えていた感触とはまるで違う冷えたものが顔面にべしっとぶつかった。
 咄嗟に瞑った両目を開ければ薄紫の……ノート? ……うん、ノートだな。どうしてノート。

「あんた達さ、僕がいること忘れてたでしょ?」
「っ、へっ!?」

 我に返り慌てて声のほうを見やれば、さっきの俺と同じように目を平らにしたほむらの姿が。

 ……やべえ。見られた!? 見られたな確実に! あんな所を弟に……っ!

 緋王との間に挟まれていたノートが引かれ、焦りと気まずさが一気に押し寄せてくる。
 冷や汗が止まらない。勢いよく姿勢を戻し、ソファの端から俺達をじとっと見ているほむらの肩を掴む。

「な、何言ってやがる! お前のことを忘れるなんてそ、んな、なあ緋王!?」

 助けろ! と視線に込め振り返ったのに、

「なんだ、まだいたのか」
「…………」
「てめえ、緋王っ! ほむら! お前はなんっも見てねえ、そうだな!?」

 ギリギリの加減で両肩を掴みながら語尾を強めても、ほむらの雰囲気は塵ほども変わらない。今さら何をと目が語っている。
 それでも引き下がらず無言の攻防を続けていると、肩を掴む左手をぽんぽんと叩かれ。

「わかった。兄貴が必死なのはわかったから放して」
「そ、そうか! さっすが俺の弟!」

 どう見ても呆れ顔なことには気づかぬふりで肩を解放し、ほっと胸を撫で下ろす。 すると背後から短い嘆息が聞こえ、反射的に全力で睨みつけてしまった。
 ことの元凶は素知らぬ顔でソファにふんぞり返っている。俺の気苦労も知らず……いや、知りすぎている分たちが悪い。悪すぎる。

(緋王、お前後で覚えておけよ……っ)
(気が向いたらな)

 無言のやり取りを舌打ちで終わらせ、もう一度ほむらと向き合う。
 と、思わぬ鋭い目つきにまばたきを繰り返してしまう。

「ほむら? おっかねえ顔してどうした?」
「……兄貴さあ、その白いののどこがいいわけ? 顔?」
「へっ!? お、お前いきなり何言って」

 俺の狼狽には目もくれずまだ幼さの残る弟の顔が不機嫌に歪む。

「尊大だし性格は極端に悪いし、ついでにたちも悪いし、そりゃあ顔がいいのは認めるけど? でも顔だけならあの狐だって負けてないじゃん。ていうか僕だっていいほうだし」
「えっと……お前本当に何言ってんだ? 変なもんでも食ったか?」
「ようするに、兄貴があえてこいつを選ぶ理由がわかんないって言ってるの。……ぼくだって兄貴と一緒にいたいのに」

 ずるい、と小さく呟き俺の肩越しに緋王を睨みつける。
 そろそろと首を回すと、緋王の視線も俺を通り過ぎていた。先にいるのはほむらだ。二人の睨み合いの間にいる自分はまるで透明になったようだ。

 微妙な空気が剣呑なものへと変化していくのを肌で感じ、一歩後ずさった。透明の壁がなくなった二人は容赦なくその痛い視線をお互いに刺し合う。

「大体さ、あんたは狐の協力がないと兄貴に触れもしないんでしょ? それって隣に立つ資格あるって言えるのかなあ」
「資格、か。汝もなかなか面白いことを言う」
「だってそうでしょ? こうしてる今だって狐の術があるから居られるんじゃん。そんなのでさあ、万が一兄貴に何かあった時、あんたに何ができる? 何もできないんじゃないの?」
「汝は藍丸を一人では何も出来ぬ木偶だと、そう言いたいのか」
「そんなこと言ってるんじゃない! 兄貴は強いし立派な羽織だし、だからっ、あんたなんかいなくたって――」
「そこまでだ」

 いきり立つほむらを言葉で制止する。すうっと双眸を細めれば、ばつが悪そうに床へとその視線を落とした。
 一部見える唇が噛みしめられている。悔しそうに。言いたいことを堪えているように。

「ほむら」
「っ」

 ビクッと肩が跳ねた。上がらない頭にそっと掌を乗せてやれば、再び体が揺れる。

「ありがとな。俺を心配してくれたんだろ? けど、あんまり言ってくれるな」
「……なんでそんな奴のこと庇うのさ」
「庇ってるんじゃねえよ。ただな、実体が無いことをいちばん歯がゆく思ってるのは誰だと思う?」

 刺々しくならないよう努めて柔らかく問いかける。
 俺達によく似たほむらの瞳が戸惑いに揺れた。決して逸らさず、けれど圧を感じさせないように素直な黒髪を梳く。
 沈黙が降り立った居間は、耳が痛くなるほどの無音に包まれた。

 俺は知っている。

 緋王がどれだけ自身の存在の希薄さや脆さを自覚しているか。
 尊大な振る舞いは生来のものだとしても、ひとたび俺絡みとなると驕傲なほど強くなったり、消えてしまいそうなほど弱くなることを。

 俺との共存をどんな思いで受け入れたかを。
 初めて他者として触れ合った時、緋王がどれだけ震えていたかを。その震えが歓びと淋しさからくるものだったということを。

 肉体のない己の唯一の願いが、俺に触れたい、ただそれだけだったということを。

 藍丸、と。呼ばれた気がした。

 その声は静寂に飲まれるほど薄かった。けれど確かに、半身の声。きっと俺にしか拾えなかった声。

「俺はな、ほむら。一人で立てねぇような情けない男にはなりたくねえ。けど」
「……けど?」
「俺は緋王で、緋王は俺だ。こいつがいねえと俺じゃない。緋王を含め俺なんだ。……わかるか?」

 触れた髪から一瞬の炎気。走った熱に浮きかけた手をぐっと留め、ほむらの言葉を待つ。

 すべてをわかってくれなくてもいい。俺達のことはきっと俺達にしかわからない。
 それでもほむらには――弟には、緋王を、俺達の存在を、勘違いしたままいてほしくなかった。

 そっと、壊れものに触れるように背中に何かが当たる。
 振り向かずともその熱の正体は掴めた。こんな熱さ、緋王の掌以外にない。

 まるで俺を支えるようなその熱にふっと笑みが零れた。

「……わかってるよそんなこと。最初っから」

 俯いたまま吐き捨てるようにほむらが言う。

「そいつ……緋王だって、兄貴なんだって。わかってるよ。わかってるから悔しいんじゃないか」

 泣き出してしまいそうな頼りなげな声に耳を傾ける。

「僕だって同じなのに。同じ親から生まれた半妖で、同じ力を持ってて。なのに僕だけ一人だ。そいつには兄貴がいて、兄貴にはそいつと一紋の奴らもいる。でも、僕は一人だ。… …そんなのずるい」

 二度目の「ずるい」はきっと、俺へも向けられていた。それだけほむらの声は淋しげで、同じくらい幼子のようでもあった。

 撫でる手はそのままに肩越しに背後へ振り返る。 緋王はその眼を伏せ、何かを沈思しているようだった。
 いや、無かもわからない。静かなその雰囲気は声掛けする気を起こさせないような、触れてはいけないようなものだった。

(ずるい、なあ……)

 それきり黙りこんでしまったほむらを見下ろしながらこの家の住人達を思う。

 妖として突出した力を有しながら、常に俺の傍らにいる雷王と弧白。
 家事一切を担う一紋の良心、桃箒。蛟女、一つ目たち、姿は見えずとも永きに渡り一紋を包容する家哭。

 少し馳せるだけでもたくさんの顔が浮かぶ。
 誰一人漏らさず離れがたい存在だ。あいつらにとって俺なんてひよっこに過ぎなかった頃からずっと、影に日向に護り、支え、共に居てくれた存在。
 俺は一人で羽織役にまで成れたわけじゃない。あいつらが俺を羽織役として立たせてくれた。

 もし、誰もいなかったら。

 傷みのない黒髪から手を離す。手を追うようにほむらの顔が漸く上がった。瞳は揺れ、声と同じく泣き出しそうな表情になっている。

 もし、誰もいなかったら。

 俺も今のほむらのように、ぶつけどころのない淋しさを抱えていたのだろうか。
 人の時を終えた後、永久に等しい妖の時の中を、たった一人で。

 考えただけで飲み込み難い感情に襲われた。
 眩暈がするほどの孤独。俺はきっと耐えられない。今を知っているが故に殊更恐ろしくてたまらない。

 頭を振り、得体の知れない恐怖を掻き消した。
 向き直ったほむらはまだ俺を見ている。責めるように、縋るように、一心に。

 お前は一人じゃない、俺が、緋王がいる。親父と母さんもいる――そんな気休めにもならないようなことを言うつもりはない。きっとそんな言葉を弟は望んでいない。

 俺が弟ならどんな言葉を望むのか。
 薄い涙膜の張る双眼を見つめ、そこに望みを探す。

「……餓鬼が」

 耳馴染んだ低音に思考を遮られた。
 逆撫でしかねない言い方を咎めようと開けた口は、再び届いた音に閉じざるを得なくなる。

「欲しいならば情を乞わず奪えばよかろうに。それすら出来ぬ羽虫が何を云ったところで戯言にすぎぬわ」
「な……っ! あんたに何が」
「わかるのか、と? わかりたくもない。無い物ねだりしか出来ぬ餓鬼をあやす暇など、我にも藍丸にも無い」

 煽るな緋王、そう咄嗟に口を挟みそうになった。
 気が気じゃない俺をよそに、辛辣な物言いをする半身は音も無く立ち上がる。

 剣呑な雰囲気はそのままに。ただ今の緋王は、俺でさえ機微を読み取れないほどに無表情だった。緋王の気迫からか居間全体ががぴりぴりしている。
 すうっと、頬の横を長い腕が通る。焔気を孕む微風が起こり、嫌な予感に背筋が粟立つ。
 掴もうとしたその時、緋王が一歩こちらへ近づいた。

「すまぬ、藍丸」
「っ、は……?」

 極々小さな囁きを耳元に置き、俺を押し退けほむらの前へと進み出た。一瞬気を逸らした隙に緋王の腕はほむらへと伸ばされ、そして。

「――っ!」

 ふわり、漆黒の上へ置かれる。

 時が止まった。

 あまりのことに息を詰めてしまう。
 緋王が自ら他者に触れた。それだけでも事なのに、相手はほむら。
 俺の知る限り好意的な態度など一度として取ったことのない、むしろ煙たがっている弟に自ら、だ。
 声を失ったのは俺一人ではない。頭へと乗せられた手を、乗せている緋王を、ほむらの眼球はしきりに追っている。

 俺以外に触れることも触れられることも嫌悪し、いっそ清々しいほどに不快を露わにする緋の王が、自ら。

 夢か、はたまた幻術の類かと目を瞬く間も、緋王の掌はほむらの頭上に固定されたまま動かない。
 何度目蓋を擦ろうともその光景に変化はなく、漸くこれが現の出来事なのだと理解に至る。

 理解の後じわじわと押し寄せてきたのは、紛れもない歓喜だった。

「緋王、お前……」
「――い……っ、だああああっ!!」
「はっ!?」

 突然耳を劈いた絶叫。弾かれたように音の発生源を見れば、とんでもない顔で緋王の右手首を掴んでいる弟と、筋立った手を小さな頭に食い込ませている緋王が……って!

「お、おい緋王っ! お前何やって……っ」
「いっだあ! あんた何す……ちょっ、力強っ! 痛いってば! は、な、せえっ!」
「ほう。痛いか。ならばもっと強めてやろう」
「何でそうなるんだよっ! やめてやれって、おい、緋王! ほむらすげえ顔になってるぞ!?」

 鷲掴みよろしく食い込む手の力は、ミシミシと音が聞こえてきそうなほど。見ているこっちまで頭が痛くなってくる。
 もがき、外させようと必死に手首を引っ掻くほむらは半泣きどころか本当に泣いてしまっている。 無理もない。見かけに寄らずこいつ、力が強ぇからな……弧白のあばら骨を蹴り一発で砕いた実績もあるくらいに。

 あまりにも弟が哀れで助太刀に入ろうと踏み出した直後、緋王が僅かに口角を上げた。

「おまえ、ほんっとに、ムッカつく……っ」
「奇遇だな。我も汝を好いてはおらぬ。この先も永劫にな」
「そ、んなの、僕の台詞だ……っ! いつか殺してやる、っていうかはな、せっ……、てば!」

 片や嘲笑、片や殺気の籠る威嚇。
 このままだといつもと同じ道を辿る――溜息を一つ落とし仲裁に入ろうとすると、挑発に興じる半身がふっと息を吐いたのが見えた。 気を溜めるような仕種に中途半端に伸ばした手が止まる。

「消炭となる覚悟を固めたら、いつでも来るがいい。望み通り灰も残さず消滅させてくれる」
「上、等……っ! いつでも、焼死、できるように、せいぜい、身辺整理でも、しておけばっ!」

 ぶつ切りの啖呵を聞きながら、俺はほむらではなく緋王を見ていた。
 いつでも来い。その言葉の裏にある意味を、噛みしめていた。

「ほう。汝は我を焼き殺すと言うのか。面白いではないか、なあ藍丸?」
「いつまでもいい気に、って、だから離せって! 頭潰す気!? この真っ白お化けっ!」
「お化け、と……、ふっ、まことお頭の底が知れる発想よ。妖の我にお化けとは片腹痛い。うっかり握り潰しかけたぞ」
「うっかりで人の頭潰そうとしないでくれる!? いだだだだっ、だからっ、本当に脳みそ出ちゃうから!」

 やり取りの内容は不穏なのにどこか温かみを感じるのは、俺の気が緩んでしまっているせいかもしれない。

「はいはい、お前らその辺にしとけ? 騒ぎすぎると家哭がひっくり返っちまうからな?」

 込み上げる喜びを隠さず微かに笑い、攻防真っ只中の二人の間に立った。
 泣き濡れた顔のほむらが救世主と言わんばかりに俺の名を叫ぶ。未だ頭を掴む手に手を重ねれば、馴染みきった体温と溶け合い。


 いつか、いつか。
 右に出る者が皆無なほど不器用な半身の気遣いが、その真心が、弟へ届くといい。
 どれほど時間をかけようと。どれほど争おうと。
 俺達にも、弟にも、時間だけはたっぷりと与えられているのだから。

 いつか、いつか。



藍丸捕物帳ドラマCD緋王編、に登場する弟・ほむらくんネタ。
ほむらはいずれ藍丸兄ちゃん大好きっ子になるだろうな予想の産物。そうして緋王と藍丸を取り合っていればいいなーと…兄弟ネタ好きです。ブラコン可愛い。
そして怖いもの知らずのほむらくんが唯一苦手とする人物はきっと弧白。たぶん絶対弧白。掌で転がされそうな感じがとても苦手だと思います。弧白にびくびくする弟くんかわいい。


*おまけ*

「なあ緋王。お前さっき何で謝ったんだ? お前の謝罪なんざ薄気味悪……いやいや、意外すぎてびっくりしちまってよ」
「薄気味……。ふん、教えてやるほど寛大と思うか」
「ええ……気になるだろ、教えてくれよ、なあ?」
「…………。汝以外に触れるからだ」
「は? なんて? 悪ぃ、聞き取れなかった。もうちぃっとでっけえ声で……」
「して藍丸。此処に金鍔が二つある」
「おっ!? 食う食う! 食おうぜ緋王ー! あっ、お前切り分けてくれよな? 俺がやるとぐっちゃぐちゃになっちまうからよ」

(単純よのう)
(金鍔〜金鍔〜)