融雪ワルツ



 家哭さえいれば、築年数が世紀を跨いでいても、間取りが犬小屋並でも、風呂や厠の無い物件でも関係無い。どんな粗末を極めた家屋であっても扉を開ければたちまちに立派な屋敷となる。

 そう言い出したのは他でもない俺の半身・もう一人の羽織役。
 確かにその通りではあるものの、一紋の連中と新居の相談をしている今緋王がそう言ってのけた途端、場は静まり返り、俺含む全員があんぐりと口を開けてしまったのだ。

 緋王が俺という羽織の双翼として存在を確立させてから早三百年。
 その間数え切れない程の転居を繰り返してきたけれど、転居先について緋王が口を挟んだことは一度として無かった。我関せずを貫き、新居へ移ったところで文句も感想も何もなかったのが常。
 当然といえば当然だ。緋王は俺以外には――物にも人にも妖にも――興味を示さない。口癖が「藍丸」という程、魂を共有する俺にしかその視線も関心も向いていなかった。……今までは。

「……緋王? お前一体どうしたんだ……?」
「何がだ」

 つい訝るような視線をやってしまう。一紋すべての注目を浴びる本人は気怠そうに首を回し、時を止めた俺を一瞥した。

「なんだその顔は。汝がいつまでも結論を出さぬから言ったまでであろう」
「いや、それはわかるんだけどよ……お前いっつも相談の類には参加しねぇじゃねえか。だから意外、というか……」

 目を瞬かせる俺の周囲で、同意の頷きの気配がいくつも感じられた。俺との決定的な違いは、その気配にはどこか遠慮が見え隠れしているという事だろうか――。


 ――そろそろ引っ越しをしなければ近隣の人間に怪しまれる恐れがある。  雷王のその意見に反対する者は皆無で、昼餉後の今、一紋全員が居間で額を突き合わせ、物件情報誌と睨めっこをしていた。
 俺の左隣にはいつも通り緋王。一昨日からずっと分離の術を施されている為か、その表情には心なしか疲れの色が見え隠れしている。 きっとその些細な変化は、心の臓すら共有する俺にしかわからない程度なのだろうけれど。

 緋王が現れるまでこういったときには必ず俺の両隣を固めていた腹心達は、上座から最も近い左右に割れていた。
 雷王はともかくとして、常日頃俺との距離を空けたがらない弧白が異を唱えないのは、譲る相手が緋王だからだ。
 そしていつも以上に他の連中の顔が緊張に彩られているのも、この場に緋王がいるからだろう。三百年という歳月は途方も無いけれど、まだまだ姿勢を崩す程気安くとはいかない様子。

 ぼんやりと身内の輪を眺めていると、腕を軽く突かれた。はっとして左を見れば何とも怪訝そうな紅の瞳と視線が絡む。
 如何を問わずとも答を待たれているだろうことは容易に察した。だから慌てて頷き、大丈夫だと笑う。何が大丈夫なのかは俺自身意味を掴めていないけれど。

 ただ、その場しのぎの誤魔化しを見過ごしにしてくれる程我が半身は優しくない。
 案の定容易く見破られ、怪訝はついに不機嫌へと変化してしまった。

 緋王の全身を不穏な気配が包む。
 室温すら下がったような錯覚。――まずい。

「いやっ、あのな!? 別に口挟むなとか言ってるわけじゃ」
「もうよい。我は還る」
「へ」
「弧白、術を解け。我はもう飽いた」

 言うが早いかふん、と鼻を鳴らす片割れはどう見てもご立腹なご様子。これだからこいつは扱いが難儀だ、とは漏らせる筈もなく、ひっそりと内心に嘆息した。
 脇では弧白が「おやまあ」と片笑んでいる。
 弧白のことだ、緋王が望めば叶えてしまうだろう。確かに出ずっぱりでいると緋王の負担となってしまうけれど、拗ねたまま戻られるのも後味が悪い。

 完全に臍を曲げてしまったらしい緋王と腰を上げかけた弧白へ場の注目が集まる。桃箒なんて見るからに狼狽えちまっているし……仕方ない。

 意を決し無理矢理に笑みを作る。そうしてから、早くしろと弧白へ催促を飛ばす緋王の両肩を掴み、ご機嫌斜めなその顔を覗き込んだ。

「怒るなって、な? 戻るのは止めねぇけど、勘違いしたまま行くな。な? 緋王。頼むからさ」
「ふん」
「本っ当に他意なんかねぇんだって。むしろさ、お前の意見聞けて嬉しいくらいなんだぜ? だからもっと聞かせてくれよ、なあ?」

 ことさら明るく伝え、眼前でぱしりと両の手を合わせてみせる。小首を傾げ畳み掛ければ、紅の瞳が真意を探るように見つめてくる。
 ここで逸らすともう駄目だ。にべもなく俺の中に沈み、暫くは呼び掛けにも応じてくれなくなる。
 火を見るより明らかな反応を思い、張り付けた笑みを崩さずひたすらに低姿勢の「お願い」をし続ける。

 肩越しに雷王の溜息、弧白の忍び笑い、一つ目共の揶揄する声が聞こえてきた。
 こんな情けない場面の一部始終を見られていると思えば泣けてくる。が、なんとでも言いやがれ。羽織としてそこそこに長い俺がゴマを擦るのは、この無二の片割れにだけだ。

 沈まれたら面倒というのもある。けれどそれ以上に俺が参っちまうんだ。
 緋王無しの生活なんてとうに耐えられるものじゃなくなっているから。

(ったく、俺はいつからこんな……)

 女々しい、と腹で毒づいたその時、細められた紅の双眸が俄かに歪んだ。

「……汝は本当に……」

 聞き取れたのはそれだけで、何の前触れもなくぐらりと上体が傾く。
 その躰は抱き止めようと伸ばした腕をすり抜け、床ではなく俺の膝上へと落ちた。
 布越しの太腿に俺より素直な白の髪が滑る。ぎょっとして周囲を見回せば、弧白と蛟女が物知り顔でにやりと笑った。

「さぁて、私たちは席を外そうかねえ」
「そうね。桃箒、一つ目、私たちも行きましょう」
「待て弧白、蛟女。まだ移転場所も決まっていないだろう」
「つくづく野暮な雷獣だね。朴念仁は黙って従えばいいのさ」

 見慣れた蔑みの視線を雷王へくれてやりながら、弧白が今度こそ腰を上げる。

「お、おい弧白!? ちょっ、蛟女たちも行くな! お前ら、話し合いはまだ……っ」

 制止を押し切るような微笑が向けられ、次の言葉が出てこなくなった。
 弧白が踏み出したのを切欠に、全員集合だった居間から次々と従属達の姿が消えていく。止めようにも緋王に膝を取られている為動けない。見送るしかない俺へ、去る彼らは皆笑顔を浮かべごゆっくりと落としていく。

 弧白の歩みと連なって、昔と何一つ変わらない細く淡い銀髪が風に揺れた。見事なそれを靡かせながら、戸の手前で古き妖狐はあるかなきかの笑みを浮かべる。

「藍丸。緋王様はお疲れのご様子だからねぇ。たっぷりと癒して差し上げるんだよ、お前が」

 含みのある言葉と弧を描く紅い唇。艶なそれに見惚れそうになったけれど。

「って、おい! おい弧白っ! ……行っちまった」

 生じた僅かな隙を見逃す弧白ではない。俺が惚けたその一瞬のうちに、銀糸の影を薄らと残し居出て行ってしまった。
 影が消える頃には他の連中の姿もなく、後に残ったのは戸惑うようにその様子を見ていた雷王だけ。

「藍丸……」

 困り果てた声にこっちまでつられる。
 困惑した雷王と視線を交わしていると、膝元に身動ぎの気配を感じた。
 薄い唇が僅かに開閉している。振動を伝えぬよう慎重に腰を折り耳を寄せれば、言葉未満の音が聞こえてきた。

「……、……」

 拗ねているだけかと思いきや、どうやら本当に眠っているらしい。

 こうしていると、人形みたいだ。
 伏せられた目蓋を長い前髪が隠している。カーテンのようなそれを払い、作り物めいた柳眉をそっと辿る。
 睫毛の長さや濃さまでそっくり俺と同じなのに、どうしてこうも綺麗に映るのか。
 緋王の寝顔なら重ねた日々の数だけ見てきたけれど、何度見ても見飽きることなんてない。

(俺以外の奴がいる前で寝ちまうなんざ珍しいよな。あーあ、こんっなに無防備なツラ曝しやがって……)

 目を細め、頬を軽くつついてみた。整った眉が僅かに寄せられただけで目蓋が開かれることはない。どころか、夢でも見ているのか皮膚の下の眼球が忙しなく動いている。
 依代に宿った身でも夢は見るのか――なんて、緋王には口が裂けても言えないことをつい考えてしまった。

 半身の寝顔に見入っていると微かな空気の揺れを感じ、顔を上げる。
 さっきまでいた筈の雷王の姿がなかった。少し前まで一紋の連中でびっしりと埋まっていた居間はもう、ただそこに空間が拡がるだけ。
 大型のテレビと大きな観葉植物、全員が同時に着けるだけの大きな食卓、揺れる淡色のカーテン。それだけがそこにあった。

 現代。何故か今、それを実感した。
 家哭が憑いているのは昔から変わりない。けれど俺達の家も生活様式も時代に合わせ少しずつ変化している。それを物寂しく感じる時は確かにある。
 家哭は俺が一声掛ければ昔のような内装にも対応してくれるだろう。それをしないのは、俺も、あいつらも、時代と寄り添う必要性を承知しているからに他ならない。
 妖屋敷といえど対応していかなければいけないのだ。時代という逆らいようのない大きな流れに。

 静けさしかない居間を眺めているうちに、どうにも形容しがたい気持ちに襲われた。
 郷愁にも似た寄る辺の無い淋しさ。空気さえ薄くなった気がして、たまらず顎を上げた。
 そこに見た紅――江戸に生きた頃と同じ紅天井に、思うよりずっと安堵してしまう。

 そういえばこれを最初に見た時、弧白は綺麗だと微笑んだけれど、雷王はいい顔をしていなかった。
 懐かしいやり取りが脳裏を掠め、自然にふっと笑みが零れた。わざわざ記憶の川を辿らなくても昨日のことのように思い出せる。その時雷王がついた溜息の深ささえ鮮明に。

「なあ緋王。神さんはなんで妖に、人間みたいな忘れていく機能ってぇのを備えなかったんだろうな?」
「…………」
「覚えてろっつうことなのかな……生きた時代も、起きた出来事も、幸いも業もすべて」

 眠る片割れの髪を梳きながらひとり呟く。
 業。口にすると苦い記憶が深層より蘇った。
 俺の業、緋王の業。消えることも褪せることも赦されることも決して無い、業。
 どれだけの時が流れようと罪の意識は薄まらない。それでいいと思っている。俺も、緋王も、決して忘れてはいけない過ちだから。
 繰り返さないために。もう誰一人――罪無き者を、誰一人とて傷つけないために。彼岸花が咲き乱れるあの場所に閉じ込めることのないように。

(……なあ、緋王。お前もそう思ってくれてんだろ?)

 頬に触れ、心に尋ねる。
 返答は無い。こうして身を別けている時は当然声に出さないと伝わらない。
 けれど今は何故か伝わるような気がした。夢の間に間に、きっと。

 無防備な寝顔を見つめ、ふと、先刻の普段はしない口出しをした半身を思う。

 もしかすると……いや、おそらくそうだ。
 緋王の心は一紋へ開かれようとしている。
 三百年という永きに渡り牢固だった心が、俺にしかその深潭を見せなかった頑なさが、ようやく。ようやく解れてきたのだ。ようやく、一紋を受け入れようとしている。
 俺にはそんな風に思えてならない。でなければ寝顔でさえ晒さないはずだ。

 心赦さず、俺以外の何者も信用せず。
 そんな馴れ合いを好まずの性質は半身である俺が一番よく解っている。

「……緋王」

 少しの面映ゆさから声が上擦る。小さな咳払いで誤魔化し、目を瞑り深く息を吸った。
 細く吐き出しながら伏せた目蓋を持ち上げる。開けていく視界に、上下する肩や白の髪、燃え立つ紋様が映る。
 無造作に置かれている手を取った。冷えた白い指に指を絡めれば、ゆるゆると握り返される。
 眠っていてさえ一つに戻ろうとするような所作。じんと、胸にあたたかな何かが染み出した。

 もう一度呼んだ。夢の中まで届くように、いとしい半身の名を。
 睫毛が震える。握り合う指先がきつく絡む。

「ちぃっとずつ、半分こしていこうな。俺の持ってるもん、お前の持ってるもん。いつかお前が俺と同じくらい大事なもんをたくさん抱えるようになったら、俺はたぶん……いや、絶対に嬉しい」

 どくんと、鼓動がひとつ高く鳴った。
 緋王の声無き声なのか。俺自身の発揚か。はたまた共鳴かはわからない。

 確かなことは、分け合った体温が混ざり溶け浸透しお互いの温度を食い合って真ん中の温度になっているということ。
 緋王の呼吸の拍子が少しだけ狂っているということ。

「狸寝入りたぁ、お前も可愛いところがあるじゃねぇか。なあ緋王?」
「……我がいつ寝入ったと言った。汝が思い込んでおっただけであろうよ」
「その狸っぷりに居直りっぷり、お前もついに嘉祥の毒にやられたかよ」
「うつけが。我をあの古狸と同列と申すか」
「どうだかなぁ?」
「よしんばそうであったとしても我だけではなかろう。我がかかったと言うなら藍丸、汝も等しく毒にかかったことになるのだぞ」
「ははっ、っとに口が減らねえ半身だな、お前はよ」

 煩いと寝返りを打つ緋王の耳元で、お互い様だと囁いた。
 黙れと迫る唇をひらりと躱し、俺から奪ってやった。

 戸の向こうに慣れ親しんだ気配を感じる。ひっそりと此方を窺いながら、けれど気配を消そうともしていない。
 潜めた声が俺達を呼んでいる。藍丸。緋王様。主様。俺達の名を。

 あれは雷王、あれは弧白、あれは桃箒、あれは――。

 焔そのもののように熱い舌を吸いながら、込み上げる微笑ましさを心に仕舞った。
 雪解けは近い。そんな気がした。



周りに打ち解けていく緋王さんが見たかっただけの話(どうしてこうなった)