とある日――桃箒の場合



「――っ、ぅ……、緋、王、やめ……っ」
「やめて辛いのは汝であろう。大人しくしていろ」
「や、ぅ、もう、やめっ、あぁ――」

 襖一枚隔てた先に起きているらしい情事。
 耳を塞ぎたいのはやまやまだけれど、両手は盆で塞がっている。
 主様方にお出しするものを床へ付けるわけにはいかないし――溜息が零れそうになるのを寸でで堪え、中の様子に耳をそばだてた。

 お茶をと申し付かってから一刻弱。すぐにと答えたものの丁度茶葉を切らしていて。
 そうして町まで買いに出て急ぎ戻ったところ、とてもお運び出来ない事態になっていた。
 ただ、主様本人にはとても言えないけれど、主様たちのこんなことには私も、おそらく他の妖たちも慣れてきてはいる。

 けれど今はどうにも心配になってしまう。
 先程から主様のお声には辛苦が混ざっているように思えて……。

 続く悲鳴にも似た懇願の声に盆を持つ手がカタカタと震えてしまう。
 ああ緋王様。どうか主様に乱暴なことは――そう言えたならどんなに。どんなに……。

   くっと唇を噛んだところで、背後の床板が静かに鳴いた。

「何をしているんだい、桃箒?」
「ひええっ! ……あっ、こ、弧白様!?」

 振り向いた先には訝る弧白様が立っていらして、危うく落とす、というところだった盆をさらりと救ってくださっていた。

「鈍くさいねえ。この湯呑み、藍丸の気に入りだろう? 落として割ったじゃあの子が悲しむじゃないか」

 言いながら盆を渡され、冷えた視線に晒された身が竦む。

「あ、あっ、す、すみません! 以後気を付けます……」
「口では何とでも……おや、緋王様と藍丸は……ふふ、仲睦まじいこと」

 咎めの言葉を止めた弧白様は、私の存在など忘れてしまったように閉じた襖を見つめている。口元に携える微笑の艶やかさはどう言葉にしていいものか迷うほど。

(弧白様は心配ではないのでしょうか……)

 私などは主様の泣き声を聞くだけで心臓が締め付けられるようなのに。
 複雑な気持ちを抱きながら横顔を見つめていると、何を思ったか、手套付きの弧白様の右手が襖に添えられて。

「あっ、いけません弧白さ……っ」
「しい……」

 静かにおし、と妖しく微笑み、その手は襖をすうっと開いた。
 静かな命令に慌てて口を閉じた私の目の前へ、室内の灯りがほうっと流れ込む。
 開かれた襖は目幅分の隙間をあけて止まり、長身の弧白様は少し身を屈めて中を覗き込んだ。

 一寸前の心配はどこへやら、弧白様のそんな姿に驚き仰け反ってしまう。
 まさかあの弧白様がこのようなことをなさるなんて。
 いつでも気高く妖しく冷酷で、主様方と己以外……私たち一介の妖などとは馴れ合わずを貫く孤高の方が、まさかこんな。

 色々な意味で混乱する頭をどうにか鎮め、極力抑えた声で弧白様を呼ぶ。
 どうかおやめくださいと。主様が知れば塞いでしまいかねませんと。緋王様が知れば屋敷が炎上してしまいますと。 さらに雷王様へ知れ渡れば主様の嘆きように雷が落ちてしまいますからと。

 けれども私の訴えなど柳に風。弧白様のお耳には届いてさえいない様子。

「こ、弧白様ぁ……」
「うるさいよ、桃箒。お前も茶柱が萎びて沈む前に渡したいだろう?」
「それは……、ですがこのようなこと、主様はきっと……っ」
「その口捩じり切られたくなければおだまり。……ああ藍丸、あんなに泣いてしま…………」
「弧白様?」

 尻切れ蜻蛉な物言いなどお珍しい。

 不思議に思い首を傾げていると、佇まいを直された弧白様はふうとひとつ溜息を落とし、静かにお着物の襟を正された。
 突然の変相に心当たりのない私は、ただその様子を見ているしかなく。
 薄い唇が「なんて色気のない」と動いたのは私の気のせいかもしれない。

「あ、の……? 弧白様……?」

 白々と天井を仰ぐ弧白様を覗くやいなや、またその右手は襖に触れ、今度は遠慮もなくすぱん! と大きく開かれ……えっ!

「こっ、弧白様!?」
「失礼します」
「無礼な……何をしに来た、狐」
「え……、はあっ!? こ、弧白!? 桃箒まで……っ、お、お前ら何して……っ」

 襖が全開になるのと同時に、私含む四名の声が重なる。
 お可哀想に主様は両の眼をいっぱいに見開き、襖の正面に立つ弧白様とその後ろに控える私を忙しなく凝視されて。
 その居たたまれないお姿を見ていられず、ろくに状況も把握しないまませめてもと明後日の方角へ目をやった。

「あっ、あのっ、主様! これはっ」
「桃箒。用なら早く済ませておいで」
「ですが弧白様ぁ!」
「何も遠慮することなんてないよ。ごらん」

 どこか白けた物言いにおそるおそる弧白様を窺い、そして主様方へと目線を戻す。
 するとそこには、主様の御御足を折り曲げるようにして抱える緋王様と、その下で涙目になられている主様が。
 察するに……柔軟、でしょうか。

「ええと……主様方? 一体何を……」

 推察を確信にするため問えば、緋王様からはきつい一睨みを、主様からは溜息を頂戴してしまう。

「何って、見りゃわかんだろうが。すっとぼけてないで助けろ桃箒!」
「ええっ、わ、私ですか!?」
「弧白もだっ!」
「遠慮しておくよ」

 にべもなく言い放つ弧白様は再び溜息を重ね、諒解も得ないまま畳を踏みしめた。 私など緋王様の威嚇に足が竦んでしまっているというのに……やはり弧白様は特別な方なのだと改めて思う。

「桃箒。早くおし」
「はっ、はいぃっ」

 背中越しに命じられ、慌てて盆を持ち直す。一礼の後室内へと向かえば、既に弧白様は主様方の傍らに腰を下ろされていた。

「それで? 藍丸、緋王様。一体何がどうなって今なんだい?」
「だぁから、見りゃわかんだろって」
「それがどうにも解せないから訊いているんだよ。まったく、色気の欠片もありゃしない……」
「何か言ったか狐」
「いいえ、何も」

 御三方のやり取りを横目に膝をつき、湯呑み二つを音を立てぬよう置く。

「ちぃっとこむら返り起こしたら緋王の奴、我が治してやろう、とか言ってよ? もう治ったって言ってんのに離さねえんだよ。って、緋王。いい加減下ろせって、みっともねえ」
「ふうん……それでそんないい姿になっていた、と」
「まあそうなんだけどよ。こむら返りだきゃどうにもならねえよなぁ。だから緋王、下ろせってば」
「狐。いつまで見ている気だ。我は入室を許した覚えはないぞ」
「そうは申されましても、ねえ? 藍丸の一大事、従属として黙しているわけにはまいりません故」
「心配はありがてえけどな、弧白。一大事も何も、もう治ったって言ってるだろ? 過保護も大概に……ていうか緋王は足下ろせ! こんなじゃ格好もつかねえ!」

 やんややんやと始まった御三方の押し問答に、ついうっかり笑みを零してしまった。襖を前に焦れていた少し前の自分を思えば余計に笑えてくる。
 すべて私の取り越し苦労だったようだ。弧白様がいらっしゃらなければ、今も私は襖の向こうで右往左往していたことだろう。

「弧白様、弧白様の分のお茶も今ご用意致しますね」
「だああっ! だぁっから、お前は足下ろせ! そこを退け! みっともねえ姿晒させるんじゃねえよ緋王!」
「痛い、助けろと泣いて乞うたのは汝であろう」
「治ったって何度言やぁいいんだっ! つうかあれは不可抗力だっ! 蒸し返すんじゃねえよっ」
「へえ……藍丸、泣いたのかい? 痛みで泣くなんて、お前もまだまだ青いねえ」
「弧白! 便乗すんじゃねえ!」

 私の申し出は届いていないようで。
 茶の揺れる湯呑みをすうっと横へずらし、笑いながら腰を上げる。

 足音を忍ばせずとも、私の退出など御三方は気づかないでしょう。
 そう思い直し、台所へ向かうため開けっ放しの襖の外へと足を踏み出した。

「桃箒ー、ついでに金鍔持ってきてくれよな」

 振り向けば、笑顔。ずっと見ていたくなるような、主様の。

「二つだ、桃箒」

 つっけんどんなご命令は緋王様のもので、

「四つだよ、桃箒。一つずつではとても満足しないだろうからねぇ」

 片笑みのまま付け足しをされたのは、弧白様で。

「はいっ! すぐにお持ちいたしますねっ」

 笑みを深めた私を、喜々とした主様の声が送り出す。それだけで私の足取りは軽くなった。

   夕餉は主様方の好物で膳を彩ろう。忘れず稲荷も添えて。

 そんな昼下がり。
 まだまだ日は傾かぬ晴れた日の出来事だった。




桃箒側の小話。
緋藍を愛でる出歯亀弧白さんを書きたかっただけ(ごめんなさい)