揺り籠のなかで



 ――藍丸。ここよ、藍丸。

 柔らかな呼び声に誘われるように進むと、薄く黄ばんだ襖の前に行き着いた。
 声はこの奥から聞こえる。
 優しい声。どこか覚えのある声。声の主の相貌はまったく思い出せないけれど、大切な記憶だということは解る。どうして大切なのかはやはり思い出せないけれど。

 ――藍丸。

 黒の引手に手を添え、引く。途端、飛び込んできた光。眩しさに思わず両目をかたく瞑る。

 ――藍丸。おいで、藍丸。私の可愛いお前。

 眩しすぎて目を開けていられない。
 けれど脚は声のほうへと進んでいた。繰り返し名を呼ぶ声を頼りに。

 もう少し。もう少しできっと。きっと、会える。

 どうしてこんなに高揚しているのか、どうして僅かな不安を抱いているのか。
 自分でもわからないままに歩いた。声はどんどん近くなる。
 それに連れ、女の声以外の――そう、赤子の泣き声だ。泣きやむ気配のない泣き声が、女の声に重なるようにして響いている。

 ――藍丸。

 瞼の痛みが漸く引きかけた頃、その声はもう間近だった。
 ゆっくりと。ゆっくりと、少しの躊躇いと共に目を開ける。
 白い光の中、細めた視界に誰かの影が映った。

「か……」

 呼びかけようとしたその時、足元に衝撃が走る。驚いて下を向けば、三つになるかならないかの子供がしがみついていた。
 子供が笑う。無邪気な笑みを浮かべたその子供の髪は黒。

 瞳は、紅い。

「お前――」

 華奢な肩に触れようとした。けれど指先が届くより早く、今度は背中に何かがぶつかる。
 恐る恐る振り返れば、そこにも子供が。
 黒髪に赤眼。そして笑う。
 前にも後ろにも赤眼の子供。何故か肝が冷え、冷や汗がじわりと染み出した。

 ――藍丸。私の可愛いお前。

 再びの柔らかな呼びかけに、どうしてか身が竦む。
 前後を幼子二人に取られたまま影のほうを見ると。

 ――可愛い藍丸。ご覧、お前の弟達ですよ。

 ぐにゃり、影が揺らぐ。
 行くなと短く叫んだ俺へ幽かな微笑を残し、声は消えた。
 代わりに、腰へ。両の脇腹へ。右脚、左脚、右腕左腕胸元肩に頸。立っていられない程の重みが全身に掛かり、耐えきれず膝をつく。
 倒れた俺を囲む複数の脚があった。流れた汗を拭い、顔を上げる。

 子供だ。黒髪に赤眼の子供達。
 二人だけかと思いきや、膝をつく俺をぐるりと取り囲む程の人数だった。
 冷や汗が増す。そんな俺を見下ろす子供達が笑った。
 一斉に。笑うその子供達は、皆一様に黒髪赤眼。笑顔すらぴたりと同じ容だった。

「おにいちゃん」
「おにいちゃん」

 まったく同じ笑みを湛えまったく同じ容と薄さの唇が開きまったく同じ幼い声が辺りを満たし鼓膜へ流れ込んでくるその間もまったく同じ紅の瞳がただ一人黒の瞳を持つ俺を見下ろしている。
 どこまでも不気味に、可憐に、無垢で。

「らんまるおにいちゃん」

 にい、と笑みを深めた子供達がその細い右脚を同時に踏み出した瞬間、俺は声にならない声で狂ったように叫んでいた。



「ぅ、うあああぁああぁぁああ――!?」

 自らの絶叫で覚醒し、布団を弾き飛ばして身を起こす。

 荒れた呼吸が静かな寝所に響いている。胸を突き破りそうな勢いで刻む鼓動。浅く激しい呼吸は一向に静まらず、噎せた拍子に目尻へ涙が滲む。
 それには構わず辺りを見回した。まだ暗い紅天井、畳、襖に屏風。枕元には昨夜のうちに雷王と弧白が用意した水差しと明日の着物が置かれている。
 どこを見ても痛みを覚えたあの白さは見当たらず、誘う声も俺を囲む子供達の姿も無い。

 夢か。
 安堵の溜息を漏らして漸く、それを飲み込めた。

 夢。なんて不気味な夢だ。
 子は宝、そうは思うのに恐ろしくてたまらなかった。
 子供の笑顔とはあのように身の毛がよだつものだったか。人形のようなあの眼を思い出すだけで背筋がぞわぞわと冷え込む。

 腕を摩りながら大きく息を吸い込み、時間をかけ吐き出す。そうしているうちにいくらか心拍も落ち着いてきた。
 寝汗の所為で寒気を覚え身震いする。と、静かな寝所に微かな他人の気配を感じた。

 夢を思い出し一瞬悪寒が走る。ぎこちなくその気配を辿れば、心の臓側に黒髪が見え、情けない声が漏れてしまう。

「ひっ……!? って……ああ、ほむらか……」

 俺のほうを向き寝入るのは弟・ほむら。
 そうだ、昨晩はこいつも一緒に寝ていたのだった。
 月に一度浅草へ戻る弟はその度この家に寝泊りをする。慕ってくれているのか、その時はこうして寝所を共にするのが恒例になっていた。

 幼さの残る寝顔やゆっくりと上下する布団に脱力してしまう。
 確かにほむらは黒髪だ。夢に出てきた子供と同じく。
 だからどうだと言うのだ。いくら夢が悍ましかろうと、夢如きに怯えるなんざ永く羽織役を担う者として不面目の極み。 一紋の奴らや嘉祥にでも知れたら、まだまだ尻の青いひよっこと揶揄されるに違いない。

 このことは胸に留めておこう。そう決意し、首関節を鳴らす。
 肝を冷やした元凶の黒髪をひと撫でしてから再び布団へ潜ると、ほむらとは逆側から伸びた腕に引き寄せられた。

「緋王? ……起きてんのか?」
「……あれだけの叫喚。目覚めぬほうがどうかしている」
「そうだな、悪ぃ」

 腰に絡む腕に触れると、拘束が少しだけ強まる。
 身を捩って緋王のほうを向けば後頭を支える手があった。あやすように髪を梳かれ、吹っ飛んだ眠気がゆるりと舞い戻ってくる。

「何を見た、藍丸」
「……、子供。俺みてえな真っ黒な髪と、お前みてえな真っ赤な眼の……」

 返答の代わりに耳朶を食まれる。

「眠れ。夜明けはまだ遠い」
「……ん」
「悪夢など、我が燃やし尽くしてくれよう」
「は……、頼もしい、こった……」

 冷えた膚に頬を摺り寄せ、再訪した睡気に身を委ねた。
 子供騙しの言葉遊びとはわかってはいた。けれど半身の体温と燃やし尽くすという言葉、心遣い。それは毛羽立った心に確かな安心を齎し、 今度こそ安らかな気持ちで落ちることが出来た。

 緋王と共に、深く深く。



 翌日。行きたい場所も特に無いと言う弟や緋王、雷王ら従属と共に半日をゆったり過ごし、今現在・夕方。
 休日で賑わう新宿駅構内で、右腕にかかる重みに俺は困り果てていた。

「ほら、ほむら。いつまでもそうしてたら電車乗り過ごすぞ」
「……だって」
「また来月来りゃいいじゃねえか。な?」
「……帰りたくない」

 意志を込め、しがみつく力が増す。
 苦く笑いながら頬を掻き目線を上げれば、電光掲示板の時刻表示が入れ替わったところだった。ほむらが乗る予定だった列車の到着時間が一番上に表示されている。

 こうなる事が目に見えていた為家を早く出たというのに乗り遅れたら水の泡だ。
 ごねても何をしても、これを逃すと非常にまずい。なにせ、ほむらと両親の移住先は途方もない田舎町。 最寄駅は夕方以降は無人、手動改札、おまけに終電も驚くほど早いときたもんだ。
 現にこの電車を逃すと乗り継ぎがすべて間に合わず帰れなくなる。母さん達の大切な息子を預かる身としては、きちんと帰すまでが仕事で責任というもの。

 溜息を押し殺して首を回す。事態を把握している筈の緋王は我関せずと柱に凭れ、その傍らに立つ弧白はどこぞの女二人組に茶の誘いを受けていた。
 こんな時に雷王がいれば……舌打ちしたくなるのを何とか堪え、頼りにならない二人から弟へと注意を戻す。

「お前の帰りを待ってる人がいる。そうだろ? だから今日は帰れ。ひと月なんてすぐだ」
「……」
「また連絡入れろよ。迎えに行ってやるから」
「……絶対?」
「絶対。俺がお前との約束を破ったことあったか?」
「ない、けど……」

 あやし、宥め、諭し。電光掲示板と時計をひっきりなしに確認しつつ、どうにかこうにか頷かせることに成功した。
 入場券を買ったのは俺だけ。荷物半分を持ってやり、未だこちらを見てもいない二人へ今度こそ舌打ちをくれ、ほむらと共に改札を潜った。

 巨大迷路のような構内を弟と肩を並べ歩く。あれだけごねた後で沈んでいると思いきや、弟の表情は明るい。

「今度さ、修学旅行があるんだ。たぶんこっちになると思うんだよね」
「へえ。そりゃ楽しそうでいいな」
「楽しくなんてないよ。学校はつまらない」

 ほむらの声が翳る。

「話が合う人なんていないし、皆平和ボケしてるし。こっちの学校のほうがまだ良かった」
「そういうもんか? 俺は学校ってのに通ったことがねえから楽しいだろうと思うばっかりだ」
「兄貴はいいよ。そういう時代にいたんだから。どうせなら僕も同じくらいに生まれたかったな」

 口を尖らせる弟を笑い、荷物を持ち直す。

「学校はねえが騒動は日常だぞ? おっかねえ妖も跋扈してたしなぁ」
「今よりも?」
「ああ。今悪さする奴らなんて可愛いもんだ。強い奴らは総じてどっかに引っ込んで滅多に姿なんて見せねえしな」

 町は住み難くなった。それが妖共の総意だった。
 うちの連中や嘉祥一紋は上手く時代に溶け込んでいるものの、すべての妖がそういくかと言えば否。
 進む文明と共に森は減り水は汚れ、町からは夜が消えた。
 住処を失った妖も多い。江戸の世よりよっぽど、身を潜める場所を探すことが難しくなったのだ。
 自然町から遠退き、緑深い地へ移る者が殆どだった。力が強ければ強いほどその傾向にある。

「ふうん。でもそっちのほうがよっぽど面白そうだよ」
「ははっ、お前は本当に見かけに寄らず喧嘩好きだよな」
「そういうわけじゃ……、まあ、思いっきり焔使うのは嫌いじゃないけど。気持ちいいしさ」
「……そうか」

 止まりそうになった足を無理やりに動かし、何でもない表情を作る。

 俺はそうは思えない。力そのものである緋王と通じた今もずっと、焔は最終手段としている。

 恐ろしいんだ。
 何もかもを燃やした記憶が、咲き乱れる彼岸花が、燃え立つ河が、流れる骸が、焔を使うたび脳裡に蘇るから。

 呪われろ、緋王。
 呪われろ、藍丸。
 その声々が、凄まじいほどに生々しく。

 昏くなりかけた心を目を閉じやり過ごす。
 弟のこれは天分なのだろうか。血の因果なのだろうか。……いや、好戦嗜好はおそらくあの父親と長く過ごしている所為だ。
 俺は会った事すらないけれど、聞き及んだ性質はとてもじゃないが良いとは言えない。
 京を捨て、江戸を火の海に変えようとした。すべては退屈の為。
 気儘な上に、あの弧白をもって敵わぬと、あの大妖嘉祥をもって最強だと言わしめるほどの力を持つ妖。俺の知る父親はそれがすべてだ。

 つまらなそうに学校での出来事を語る弟の声に耳を傾けつつ、その横顔を見つめる。
 まだ幼いけれど作りは俺と似ている、ような気がする。
 肌の色や髪の色、目の色は瓜二つ。俺と似ているということは緋王と似ているも同義だけれど、そうと感じないのは髪色と目色の所為だろうか。
 おぼろげながらも遠い記憶の中の母は黒髪だ。ならば父親は緋王のような白髪なのだろうか。母の瞳は黒く、父の瞳は赤いのだろうか。

「兄貴は友達とかいた?」

 ふいに問われ我に返った。頷けば、興味深そうにじっと見つめてくる。

「人間? それとも妖? どんな奴?」
「んないっぺんに訊くなって。そうだなぁ……半分は妖の血が混ざってるくせにどこまでも人間臭くて、心根が優しくて、真っ直ぐで、どうしようもねぇくらいのお人好しだった」

 今はもういない親友を想い、苦い心持ちになる。
 俺が殺したも同然の親友は、記憶の中で笑っている。今も昔も、何一つとして変わらず。

 言葉を止めた俺をほむらが不思議そうに覗き込んだ。その口が疑問を投げかける前に目的のホーム下へ到着し、互いの足が止まる。

「ほら、行けよ。時間ぎりぎりだ」
「行くけど……」
「どうしたってんだ。ほら」

 持っていた荷物を渡し、躊躇う背を押してやる。

「気ぃつけて帰れよ。母さん達によろしく言ってくんな」
「うん――」

 何度も振り返りながらエスカレーターを昇っていく弟が見えなくなるまで見送り、脚まで視界から消えた後、すうっと息を吐いた。

 苦みが消えない。一度思い出したが最後と言わんばかりに、心中で拡大していく。
 目を瞑れば蘇る、あの陰惨な事件。
 宗也だったものが無残に食い散らされた跡。地面にこびり付く血、肉片、骨。泣き叫ぶ女と笑う蜘蛛。

 すべての元凶は彼の者の羽織であった父親であり、血を継いだ俺であり――。

「――兄貴!」
「っ、ほむら!?」

 送った筈の声が思考を裂く。弾かれたように顔を上げれば、階段の中腹にその姿があった。どこか切迫した顔をして。

「今度は兄貴がこっちに来てよ! 僕が……、母さん達も会いたがってるからっ」

 それだけを言い残し、階段を駆け上がっていった。口約束を結ぶことすらせずに。

 後には俺一人が残され、やがて列車がレールを擦る甲高い音が聞こえてきた。
 きっとほむらはあれに乗る。今行けば返事をしてやれる。
 そうは思うのに脚は動かず、数秒後、発車を報せる音がこの耳に届いた。
 
 答えることもままならなかった俺を置いて、列車は遠ざかる。
 弟を乗せて。顔も思い出せない両親の元へ。

「――……」

 どうしてか息が詰まった。
 吸って吐くだけの呼吸がし難い。酸素は薄まるばかりで、足元すら覚束なくなる。

 会いたいと願っているのだろうか。
 母が、父が。
 死別した筈の母が。俺を捨てた父が。
 母の転生後も一度としてその存在を明かさなかった両親が。宗也を失う原因を作った父が。
 今の世で漸く安寧を、ほむらを得た両親が。

 本当に――?

 ぐらり、脳が揺れる。
 立っていることも危うく、身体が傾いた。
 
 倒れる――揺らぐ視界の中薄い覚悟を決めた時、

「何をしておる、藍丸」

 傾いた肩を、腰を支える腕。声。

「ひ……お……」
「まったく……だから子供は好かないんだ。藍丸、大丈夫かい」
「こし、ろ……?」

 頭を撫でる手。長い白髪が頬を掠める。
 背を支えたのは緋王。宥めるのは弧白。それはわかるのに顔を上げることすら出来ない。
 支えが消えれば今にも倒れそうだった。頭痛は治まらず、喉は掠れ、視界も揺れたまま。

 そんな俺の耳元で半身は囁く。
 戻れ――と。

「戻る……?」
「そうだ。戻れ藍丸、我の中へ」

 冷えた手が瞼を覆う。緋王、と呼ぼうとした口もまた別の手に塞がれた。
 きっと弧白だ。そう思い至ってすぐ、弧白の声が聞こえてくる。
 何事かを静かに呟くそれはおそらく俺達に掛かる術を解く詞。

 暗い視界がさらに歪み、臓腑が揺さぶられる。四肢は力を失い、平衡感覚も薄れる。
 そんな嘔気を伴う不快感は長く続かず、次第に四肢の感覚を取り戻し、心地のいい何かに身の内がじわりと満たされる。 幾度も経験した、別たれた半身が戻ってくる感覚だ。

 どくり、心の臓が大きく鼓動する。
 俺が緋王に、緋王が俺となる。

 気付けば背の支えは消えていた。
 緋王を取り戻した直後、ふらついた身体を支えたのは弧白。けれど礼を発するより早く、内側より意識を引っ張られる。

 踏みとどまる力もなかった俺は、容易く緋王に身体を明け渡し、代わりに意識の深みへと沈んでいった。

 深く、深く深く。どこまでも深く。


 ▽


「緋王様」
「――……」

 薄目を開ければ、此方を窺う狐と視線が絡む。
 掌を広げ、握る。
 心の内に半身を呼ぶも返答は無い。

 疲れたのだな、藍丸。
 我の呼びかけにも反応出来ぬ程。至極あっさりと身体を明け渡す程に。

「緋王様。ここは人目が多い。屋敷へ戻りましょう」
「……そうだな」

 先導するように踏み出した弧白に続く。煩わしい人混みは弧白がすべて裂いた。

 歩みながら思う。あのように動揺した無二の半身の――藍丸の心情を。

 身体を別けていた時には知り得なかった感情も、心の臓を同じくする今なら容易に感じ取れた。
 流れ込んでくる。藍丸が見たもの、聞いたもの、感じたこと、考え、そのすべてが。
 忘却した筈の悪夢ですらも。

 何者をも受け入れる心は美しい。それが藍丸の美徳でもあり、欠点だ。
 現にこうして己を保てないほど消耗している。
 記憶に翻弄され、己を見失う。

 愚かしいことだ。
 だが、その愚かさがいとおしい。

「緋王様。一つお伺いしても?」
「何だ」

 息の詰まる構内を抜け、地上へと。
 赤の陽を浴びる弧白もまた赤く染まり、目を細め我を窺う。

「藍丸は、暫く」

 その先を続けない狐の眼は憐れむような、愛おしむような。

 おそらくこう続くのであろう。暫く戻らないのか、と。
 先読みした問いの答は与えず、足を止めた弧白を抜き、雑踏へ身を沈める。藍丸の脚と眼で夕暮れの街を歩む。

 眠れ、藍丸。
 そこには汝を揺さぶるものなど何一つとして存在しない。

 だから眠れ。今は何も考えず。
 眠れ、藍丸。

 言い聞かせるように繰り返し、左胸に触れる。
 掌の下で刻む鼓動に薄く笑い、流れる人間の河に埋没した。


 ▽


 融けていく。四肢も意識もすべてが。

 意識内だと気付いたところで、身体を引き取る緋王へ呼びかける力も無い。

 俺自ら干渉しなければ、緋王以外の誰からの干渉も受けない唯一の世界。永く緋王を封じていた世界。
 此処へ沈む時は必ず緋王がいた。けれど今はいない。俺しかいない。

 不思議だった。こんなにも孤独なのに、どうして気が安らぐのか。どうしてこんなにも、心が自由なのか。

 浮かんでいるような、沈んでいるような。
 自分がどこにいるのかも曖昧な不可思議な感覚の中、漫然と声が聞こえた。

 眠れ。眠れ、藍丸。

 その声はすうっと俺の裡に入り込み、浸透する。眠りを促すその声はどこまでも優しく、静かで。

 不意に、真夜中の夢を思い出した。あれも声だった。誘う声はどこまでも柔らかで、どこか切なげだった。

 あれは誰の声だったか――考えを巡らせようとしたけれど、何故か心が拒絶していた。思うことも、思い出すこともすべてを。
 そうして知る。あの夢の意味を。自分すら知り得なかった深層を。

 俺は、たぶん――。

 渦巻く思考の端にまた声が響く。眠れ、藍丸と。
 拒絶した声とは別のそれは安らぎを与えてくれた。耳に、心に直接届く。覚えのあるそれは、強張っていた心を解すには充分すぎる響きだった。

 緋王。緋王。
 動かない口で何度も呼ぶ。

 半身に縋りつく心に、笑う宗也の顔が浮かんだ。
 続けて骸、最期の七絡、雷王に弧白、桃箒、一紋の妖たち。
 ほむらの笑み、緋王の掌。

 声は続く。眠れと。今は眠れと。

 薄く、涙が零れた。

 眠ってもいいのか、俺は。
 すべてを放棄して。それは逃げにはならないのか。

 疲弊した心に問う。答は無い。
 ただ眠れと声は囁く。

 少しの罪悪感と共に、声に身を委ねた。

 今だけは此処に。
 誰もいない、誰の目も無い、此処に。

 意識の内の意識を手放す刹那、あたたかな何かが頭に触れたような気がした。
 掠めたそれが一体なんだったのか、遂には知れなかったけれど。

 緋王の世界に、ひとり沈む。
 安らかな孤独のなかで、ひとり。


 声は響く。囁き、誘う。


 眠れ、藍丸。
 眠れ。眠れ――。




思ったより暗くなっちゃってもう…
藍丸だって逃げたくなる時あるよな、そういう時は緋王の出番かしら、という妄想を膨らませた産物(言い訳)
乗り込んだ電車の中でほむらくんはひとり後悔に沈んでいたのではないかと… 何か訊いてはいけないこと、というか踏み込んじゃいけない所に踏み込んじゃったのでは…って悶々としてそう。