桜雲


 きっかけは些細なことだった。いや、きっかけとも言えない。箸が落ちた、ただそれだけだった。

「――っ、ぁ……っ、くぅ……っ、っ」
「……っく、は――」

 額やこめかみに脂汗が滲む。もしかすると冷や汗なのかもしれない。喉仏に食い込む親指のせいで、何もかもが曖昧だ。
 そこをぐっと強く圧迫され急速に意識が白む。視界がぐらりと歪み、腹上で揺れる白髪が絵具をぶちまけたようにぼやけると圧迫が緩まる。 それの繰り返しだ。ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと。終わらない。終わらない。

 細く噎せる俺を緋色の眼が見下ろしている。燃え盛る焔そのものの色が、俺だけをそこに映している。

「……苦しいか、藍丸」
「っ、ぁ、……っは……、ぅ、ぁ……」
「苦しいか」

 苦しいに決まっている――そう答えたかった。けれど頸を圧迫する両手は離れず、親指二本は今もまだ喉仏の上に添えられている。
 それに――。

「っ、ぉ、め……、の、が……よ、……ど……」

 まともな言葉が紡げない。俺が今そういう状態にあると知りながら、緋王の質問は続く。苦しいか。苦しいか、藍丸――と。

 潰れた声を発した途端、裡に埋まるものが最奥へねじ込まれた。ただでさえ狭まった気道は音らしい音も漏らせず、 乱れた褥を更に乱しただけ。酸素を求め五指が拡がる。掴んだものはぐしゃぐしゃの布。砂をかき集めるように握り込み、中で脈動する熱をやり過ごす。
 いっぱいに広げられた両の内腿が痙攣している。このまま身体に風穴を開けられそうだ――そんな不安が胸に過った。
 腹の奥の奥で静止した緋王の静かな視線が全身に突き刺さっている。息も絶え絶えな俺を、ただ静かに。

 ふいに影が近付き、細い髪が頬に落ちた。

「……苦しいか、藍丸」

 鼓膜へ直接流し込まれた幾度目かの問いへ答えることは赦されず、抉るような突き上げをただただ受け入れるしかなかった。

 苦しいか。
 そう問うその声こそ、その眼こそ、よっぽど――。


 ▽


 緋王がおかしくなっちまう時は、今までも時々あった。
 半身の癖に、俺はその「時々」がいつ訪れるのかを読み切れない。物思いに耽っていると思えばいきなり、意識内に引きずり込まれたと思えば唐突に、表を散歩していて突然に、なんてこともあった。
 そんな時、緋王は決まって俺を組み敷き、頸を絞める。圧迫は戯れの一言では済ませられないほどだ。毎度毎度、死を近くに感じる。今度こそ死ぬと、殺されると。

 そうして決まって問う。苦しいか。苦しいか、藍丸、と。
 俺が答えられないことを知りながら問う。
 俺が応えようとしていることを知りながら声を塞ぐ。

 わからない。半身なのに、魂を共有する存在なのに、俺は何もわかってやれない。
 何故問うのか。何故答えさせてくれないのか。何故問いながら、崩れそうな貌を見せるのか。

(……わっかんねえよ、緋王……)

 汗で額に張り付く前髪をくしゃりと掴む。怠い身体は全く以って動く気がしない。寝返りを打つのも億劫で、目線だけを左へやる。

「…………」

 襖の手前に、背中。
 細い背中だ。細くて、しなやかで、それでいて儚い。

 そんな、事後一度も振り向かない背中を見つめる。開けた襖から入る春先のやわらかな風が、見事な白髪をゆらゆらと揺らす。

「……緋王」
「……」
「寒ぃだろ。閉めろよ」
「……」
「なあ。閉めねえなら着物着せろ。お前だけずりぃだろうが」

 答が返ってこないことを俺は知っている。
 この空白の時間が、緋王の悔いの時間だとも。

 ゆらゆら、ふわふわ。頼りなげに揺れる毛先から襖の外へと視線を移した。
 一面の朱。天井の紅色を薄めて橙を足したような、見事な色。沈黙に徹する半身を彷彿とさせるような、燃える色。
 褥に沈められたのは確か昼時だった。ここの所塞いでいた緋王を気遣った桃箒が、俺達の昼餉だけ別部屋に運び入れて。
 それからもうそんなに時が経ったのかと、ひとり嘆息する。もちろん緋王に気取られないように。

「どうりで冷えるわけだ。もう桃箒が夕餉の支度を始めててもおかしくねえ時間だな」
「……」
「今夜は何が出っかなあ。あ、お前もたまには飲もうぜ。いつもより多めに燗つけとけって言っとかないとな」
「……」
「それから……そうだなあ……」

 色濃くなっていく朱の中に言葉を探す。続く何かはとうとう見つからず、諦めて口を結んだ。
 襖の外からは鴉の声や人の声。けれど襖の内には、耳鳴りがするほどの静寂。痛みを感じるほどの静けさが晒したままの膚に刺さる。
 切り取られた日没だけを眺めていればいいというのに、この両眼はどうしても、その手前にある白を視界の中心に映してしまう。どうしても。どうやっても。

「緋……」
「――藍丸」

 低音が名を遮る。いきなりに聞こえた声に、知らず喉の奥が引き攣った。

「っ、んだよ……」
「……」
「なんだって訊いてんだ」
「……」
「おい、緋王。呼んどいて無視か」

 だんだん自分の声が鋭くなっているのがわかる。それでも緋王は何も言わない。ひとを呼んだくせに、こちらを向きもしない。

「……藍丸」
「だからなんだっつうんだ」
「……藍丸」
「この距離で聞こえてねえのかよ。その顔の横についてる二つの耳は飾りか? ……まさか弧白の奴、術失敗しやがったのか?」
「……藍丸」
「だぁから!」

 一体何なんだと叫びそうになった時、ふいに影が動いた。
 事後一度も振り向かなかった半身の横顔が、僅かに背後へ傾く。

「……藍丸」

 唇は動いたのだろう。きっと緋王からは俺が見えているのだろう。けれど俺からは夕陽のせいで見えない。何も見えない。何も。何も。紺混じりの朱に縁どられた輪郭以外、何も。

(……なんだよ。見えねえよ。ちゃんとこっち向けよ)

 たまらず右手を伸ばす。まだ情事の痕跡が――緋の痣が薄く残る腕を、消えてしまいそうな半身へ。
 けれど指先が肌に触れることはなかった。伸ばした手は取られ、ふわり、引き寄せられる。

 起こされた上体は中途半端な位置で停止した。捻った腰はほんの僅かに浮き、反った横腹がぴりぴりと痺れる。
 右手を攫った緋王はやはり無言。何も言わないまま、影を背負い、痺れと闘う俺を見下ろしている。

「……藍丸」
「だから何だってさっきから言ってんだろうが」
「……」
「……お前のだんまりにはもうほとほと飽きてんだ。何か言いやがれ。それとも俺には言い難いことなのかよ」

 薄く睨んでも声は返されない。今度はこれ見よがしに大きな溜息を吐き出し、空いた片手で緋王の右肩を捕まえる。
 一瞬、そこが跳ねた。振動として掌に伝わる前に消えてしまったけれど、確かに。

 ――俺は何もわからない。わかってやれない。
 問いの意味も。答えさせない意味も。たまにおかしくなっちまう理由も、俺の名を呼ぶことしかしない心の在処さえ。
 わからないけれど、一つだけ。一つだけ。

「他人と話す時は目ぇ見て話せって、雷王に教わらなかったか?」
「――っ、おい、藍ま……っ」

 ぐっと、左手を自分のほうへ引く。予想外だったのか驚くほど容易く緋王の上体は傾き、重力に従って俺のほうへと倒れ込んできた。
 二人分の体重に畳が軋む。倒れ込んだ拍子に枕が明後日の方向へと転がっていった。
 したたかに打ち付けた背中の痛みに眉を顰めていると、俺の胸板に顎を打ったらしい緋王がむくりと起き上がった。どこをどう見ても不機嫌そうに、白い頬をひくひくと震わせて。

「っ、汝は莫迦か、莫迦なのか……っ」
「へっ、お前がいつまでも浸ってるのが悪ぃんだろうが」
「浸ってなどおらぬ」
「じゃあ何してたんだ? ほら言えよ、言ってみろよ。言えねえだろ?」
「…………」

 真一文字に引き結ばれた唇の端が引き攣っている。ざまあみろと笑ってやれば、不機嫌はみるみる呆れへと変化していった。

 諦念の滲む紅の眼の中心には俺が。
 きっと俺の眼の中心にも、緋王が。

「やっと見たな」
「……」
「お前さっきから、ひとんことしつっこく呼んでたくせに、俺のことなんてまるで見えてなかったもんな」

 肩を解放し、そのまま、ひやりとした頬へ添える。
 この体温にも慣れたものだ。緋王に伝えたことは無いけれど、最初は小さな衝撃を受けた。焔そのもののような存在のくせに、その肌は冷えているなんて。
 なんて矛盾しているのだろうと思った。温めてやりたいと、この体温を分けてやりたいと。

「緋王。お前が何をそんな考え込んでるのかはわからねえけどよ……お前、しつっこく言ってたじゃねえか。お前は俺で、俺はお前だって」

 親指で頬を撫ぜる。
 伝わるように。指先から、言葉から。

「だったら全部よこせ。お前の考えてること抱えてること、俺にも分けろ」

 息を詰めた気配が掌越しに伝わってきた。焔の色のくせに冷えていた瞳が僅かに見開かれ、やがて諦めたようにふっと小さく笑う。

「……しつこくは余計だ」
「言葉の通りだろ?」

 煩いと静かな笑みを重ね、添えた掌に頬を摺り寄せてくる。
 俺にしか見せないような、安らいだ表情で。

「藍丸。汝は今、我に触れているか」
「はぁ? あったりめえだろうが。何言ってんだお前」
「汝が触れるこの頬は、膚は、本当に我のものか」
「そりゃあお前……憑坐だけどよ。けどちゃんとお前だろ? どうしたってんだ、本当に」

 伏せられた瞼がゆっくりと開かれていく。見えた色と声音に心臓がざわつく。
 妙に静かな声には覚えがあった。共に死のうと口にした時も、確かこんな声をしていた。

 苦しいか、藍丸――答を拒絶され続けた問いが耳の奥に蘇る。

 なんとなく。本当になんとなくだ。
 ずっと意味がわからなかったその問いの意味が、問う緋王の心が、本当になんとなく、うっすらと、見えたような気がした。

 半分ほど開かれた瞼の内側に揺れる紅。
 俺の体温が移りかけている頬から、何かが流れ込んでくるようだった。それは悲哀か、葛藤か、心そのものか。
 言葉にならない何かは俺の胸中まで掻き乱す。言い様のないざわめきを奥歯を噛み締めて堪え、深く息を吸った。
 いつの間にか解放されていた右手を、左頬へ。再び俺を映した眼を真っ直ぐに見据え、喉を震わせる。

「抱けよ」

 意図を掴めなかったのか、緋王の眉が怪訝そうに寄せられる。だから俺は少し笑って、また口を開く。はっきり言葉にしないと安心出来ないらしい半身へ、応えるために。

「いくら絞めてもいい。何度だってすりゃあいい。それで、何度だって訊けよ。苦しいかって訊け。そしたら俺は何度だって答えてやる。お前のせいで死にそうだ、って」
「――っ」

 視界が歪んだのか、緋王が倒れてきたのか、抱きしめられたのか、しがみつかれたのか――すべてがあやふやだった。

 確かなことは、散々絞められた頸にやわらかい何かが押し当てられたこと。細い肩が微かに震えていたこと。低く掠れた声が、気のせいかと思う程度に濡れていたこと。

 耳朶を食む温い感触に片目を瞑りながら、開放されたままの襖の向こうを見上げた。とっくりと暮れた夜の色の中に、白い靄があった。
 濃い霧のような雲のような。目を凝らせばそれは桜。彼方まで続いていそうな花の雲。

「藍丸――」

 首筋を滑る細い髪に指を通す。
 目を奪われそうだった景色を緋王にも教えてやろうかと思ったけれど、やめた。

「こっちのほうが綺麗だな」

 指の隙間を零れていく白い髪に、気付かれないよう口付けた。

 夜の帳が下りる。薄暗い室内に、荒れた息遣いが二つ。
 梟の声。乗せて問いが落ちる。何度も、何度も。確かめるように、何度も。

 苦しいか、藍丸。苦しいか――。

 呼吸を限りなく奪われながら俺は笑み、答えた。
 苦しい。苦しくて死にそうだ。お前のせいで、と。

 緋王は笑っていた気がする。弧白のような片笑みでも、雷王のような控え目なものでも、桃箒や一紋の連中のような明るいものとも違う笑い方で。
 俺がこの世で一等大切にしている紅が、さっき見た空の色のように滲んでいた。

 薄暗い室内に、荒れた息遣いが二つ。
 梟の声。
 問いは、聞こえなくなった。




暗い気分を一掃したくて、何か書いて発散しよう!と画面を立ち上げたら藍丸が喘いでいたというアレな話。
どんとこい、お前のなんだって受け止めてやらぁ。な藍丸がとても…とても…うん、すきです。男前。だがしかし私が書くとゴニョゴニョ