指
報告書に目を通しながら、次の用紙へと右手を伸ばした。
「――っ」
「千家様? いかがなさいました」
「……、いや。何でもない」
不思議そうに此方を窺う部下を片手であしらう。ついでに退出を命じればその部下は即座に直立し、一礼の後執務室を去った。
一人となった室内に噎せ返りそうなほどの静寂が立ち込める。
けれど無音は嫌いではない。いや、無音の中にある音は嫌いではない・のほうが正しいか。
軽く息を吐き、先刻痛みの走った指先を見下ろす。
書類で切ってしまったらしい。人差し指の腹部分に薄い傷が走っている。
出血は切った瞬間のみで、今はもう線のみがそこにあった。
僅かに捲れた薄皮を剥く。爪先に食い込んだ白い薄皮を特に意味もなくじっと見つめ、飽きると、ただの塵となったそれを屑入れへ落とした。
革張りの黒椅子に深く沈み込む。足先、脹脛、太腿……順に力を抜いていくと重心は増々背もたれへ掛かり、自然顎も上を向く。
高い天井だ。
初めてこの執務室を訪れた時は、脅迫を受けた為か、はたまた取り込まれまいと逃げの機を窺っていた為か、
天井まで見回す余裕が無かったように思う。
初めてこの椅子に腰かけたのは、こうなってからだ。
伊織の左腕と魂を抱え、初めてこの三宅坂の総本部を訪れた日のことを、私は今でもよく覚えている。
誰もが幾度も振り返った。一度目に怪訝を浮かべ、二度目に目を見開き、そして三度目に傅く。
誰もがそうだった。あの昴后陛下でさえ私の変質に柳眉を忙しなくさせていたのだ。
そうして全きものとなった私を、得意の優艶な微笑で迎え入れた。この陸軍総本部に。
(……蛇め。何を考えているやら……)
無意識に眉を寄せていた。
睨む天井の梁に彼の女の笑みが浮かび上がる。
女は笑う。妖しく、不気味に、妖艶に。
それは誰もが見惚れるほどの、作り物めいた美しい笑み。
けれど私は――私の心が彼女を拒絶している。
畏れているわけではない。おそらくこれは、私の中の彼が拒絶しているのだ。魂に刷り込まれた拒絶……なんとも彼らしいと思うのは私だけだろうか。
覚えのない、けれど心中に渦巻く嫌悪感を鼻で笑う。この嫌悪感こそが千家が今も私と共にあるという証拠だろう。
――他の誰にも解りはしないけれど。
息をつき、大きく背もたれを軋ませ立ち上がった。
此処に籠りきりでは身体が鈍る。少し外の空気でも吸いに行こう――。
纏わりつく蛇の影を払いながら扉へ向かった。
重厚な金属のノブに手をかけ、下ろす。身体分の隙間を広げ、廊下へ出ようと踏み出した時、何者かの声が聞こえてきた。聞き覚えの無い声だ。けれど部下であることは間違いない。
この執務室を担当する警備の者かもしれない。
「――聞いたか? あの話……」
「あの話って?」
出ていけばいいものの、私の足は何故かその場で停止した。
隙間を開けたまま耳を傾ける。
「また死霊兵の増員があるらしいぞ。近いうちに……そうだなあ、俺の聞いた所、来週にも数百」
「そりゃあまた……」
「死霊兵、死霊兵。そのうち俺達生者は必要なくなるんじゃないか?」
「ま、死霊兵のおかげで俺達は安全なんだけどな。悍ましい死霊共のおかげで命と給金が保障されているんだ、文句は言えないだろう」
そうだなと同意の笑い声が届く。私語に興じる彼らは、扉一枚隔てた位置に立つ私の存在には気づいていないようだった。
――悍ましい、か。
続く会話を聞きながら静かに溜息を吐いた。
見えざる者にとって、私達上層部が何をしているかなど到底理解の外だろう。限られた見える者にとって、さぞ悍ましく映るのだろう。かつて私もそう考えていた一人だった。
ただ、もう今は……あの運命の日から、私は私であることを捨てた。死霊に怯え、狭い正義を振るっていた柊京一郎はもはや存在しない。
この身に千家伊織を宿す限りは。
一呼吸置き、扉を開け放そうと右手に力を込めた。
勤務中だとひと睨みしてやれば、十中八九青ざめ以後は直立不動になるのだろう。立ち並ぶ装飾の甲冑達のように。
容易に想像のつくその姿を薄く笑う。
さてなんと声をかけてやろうか、そう思考を巡らせた直後だった。
「最近の上は見境がなくていけないよな」
軽蔑の滲む言葉が再び私の歩みを止める。
「正直、まだ前のほうがましだったと思う」
「前って……ああ、伊織様のほうの」
「ああ。他の連中も言ってたぞ。姿形や言動はそのままでも、伊織様とは似て非なる偽者だ――ってな」
――偽者。
「――……」
一切の音が引いていく。漣のように。
宙へ放り出されたような感覚の中、無意識に扉を引いていた。
そうして完全に周囲の音は遮断された。軍靴の鳴る音も、部下の話し声も、何も聞こえてはこない。
――偽者。
蔑みに満ちた言葉を心で反芻する。
私は、偽者なのだろうか。
千家と共にある。それは確かなはずなのに。なのにどうして、こんなにも心が波立っているのか。
これは動揺か。
そんなもの、千家伊織には縁遠い感情のはず。
ならば今此処にいる、今思考する人間は誰なのか。千家ではないのか。
けれど私は千家で、千家は私で――。
海底へ引きずり込まれるかのように思考が沈んでいく。
息苦しさに喘いだ喉からは音も何も出はしなかった。ただ虚しく細い呼吸が一筋漏れただけ。
左腕を掴んだ。
継ぎ目のあった位置に爪を立てる。掻き毟ろうとした時、指先につきりと微かな痛みが走った。
「……」
眼前に広げてみれば、人差し指に傷。小さな切り傷だった。薄皮の無い傷の内側に赤色が淡く滲んでいる。
「……伊織」
指を口元へ運ぶ。血の味はしない。何故か急に不安になる。
払拭したくて含んだ指に歯を当てた。塞がった傷を躊躇なく噛み切る。雷のような痛みのすぐ後に馴染んだ味がじわりと拡がった。
舌先で傷口を舐め、銜え、すぐ止まりそうになる血を吸い取る。
酷く安堵した。
血だけが証明だ。
千家伊織が私と共にあるという、唯一の。
実感して漸く肩の力が抜け、扉に後ろ頭を預けた。そうして初めて、自分が力んでいたことに気付いた。
少量の血に満たされたものは間違いなく心。
血を思えば独りではないことを思い出せる。千家が共にあるということを、確かな感覚として取り戻せる。
――私は千家で、千家は私で。けれど、私は私だ。
すべて理解しているのは私だけでいい。他者が何を思おうと、言おうと、どうでもいいのだ。
「ねえ、伊織。貴方もそうでしょう……?」
ふやけた指先を見つめふっと笑う。
白い傷跡は沈黙するばかりだ。血も滲まない。けれどもういい。それでよかった。
恐れることなど何も無いのだ。ただ一つ、確かな真実を抱いていれば。
「私は貴方で、貴方は、私と共に」
触れるだけの口付けを指先へ。
預けていた背を浮かせ、冷えた金属のノブを掴む。
前を向いた時、私の心に動揺の影など欠片も残ってはいなかった。
私は貴方で、貴方は、私と共に――。
ただ一つの真実を胸に、冷えた現実へと足を踏み出した。
暁ちゃんに送り付けるための千家京一郎さん小ネタB
これを書いたら自然と身体のパーツシリーズwということになってました。不覚。