05.ずっと触れたかった
音もなく。
「…………」
ぽた、と水滴が膝に落ちた。タオルを被ったままの濡れ髪は、それからもひっきりなしに水滴を落とす。小さな雫が膝を濡らしていく。
タオルと髪の隙間から右隣を窺う。邪魔なカーテンのせいではっきりとは確認出来ないけれど、硬直した左腕はしっかりと見えた。震えていたかまではわからない。
「…………」
黙ったまま自分の膝へと視線を戻す。グレーのスウェットには斑模様が出来ていた。水滴大の濃いグレーはこうしている間にも着々と数を増やしていく。雨のように。涙のように。
俺が風呂から上がって三十分。こうして横並びに腰を落ち着けてから、約十五分。
ろくに拭っていない濡れ髪が乾くことはなく、沈黙が破れることもなく、沈んだベッドが鳴くこともない。ただただひたすらに、痛い静寂が続くのみ。
こんなことならアナログな時計を置いておくべきだった。新調したばかりの電波時計は静かすぎて顔を上げない限り時間の進みが読めない。
こんなことなら部屋へ戻ってすぐ音楽を掛けておけばよかった。途絶えない無音のせいで耳鳴りさえしてくる。
そんな些細な後悔に唇の内側を薄く噛みながら腰の位置を少し変えてみた。と、
「……っ」
微かなスプリングの軋みを掻き消すような息を呑む気配が伝わってきた。横目でその気配を見やれば、硬直した腕をさらにピンと張り、
下唇を巻き込み両目を硬く瞑っている。いかにも何かを堪えている、耐えている、緊張感に押し潰されそうなギリギリにいる――そんな横顔だった。
(……そんな顔せんでもええのに)
膝元を握り締める手は白い。浮き立つ血管の青緑が気の毒なほど強調されている。
……別に、こんなふうに緊張させたかったわけじゃない。
歯鳴りを聞きたかったわけじゃない。涙目にさせたかったわけでも、服を皺だらけにさせたかったわけでもない。
俺はただ、ただ。
「……赤也」
「……っ、は、い……っ」
上擦った声が痛かった。同じくらい、いとおしかった。
顔を上げようとしない赤也へ手を伸ばせば、気配を察したのかその肩は大袈裟な程強張る。ほんの少しの切なさを飲み込み、止まりそうになる指先で硬い肩に触れた。
「っ、あのっ、あ、えっと、あ、えっと……っ」
目に見える狼狽が良心を刺激する。触れた指先から赤也の動揺や緊張が伝わってくる。繰り返す「あの」や「えっと」はなかなか止まず、しきりにまばたきを重ねて。
「のう、赤也」
「はっ、えっ、は、いっ」
「俺に触られるん、いやか」
肩に乗せた指先を見つめながら、呟く。
囁きに近いボリュームの問いかけは確かに届いたらしい。今まで頑なに上がらなかった顔が勢いよく上がり、泣きそうな猫目をいっぱいに見開く。
その中心には俺がいた。小さく映った俺は、複雑そうに笑っていた。
「ヤ、なわけ、ないじゃん……」
唇を震わせて。翠を滲ませて。
「けど、俺こんなの、ってか、こーゆうフンイキ、どーしていいかわかんなくて……でも、ヤとか、そんなん……っ」
感情が昂りすぎたのか、その眼からはらりと涙が零れ落ちた。赤也のスウェットに吸い込まれたそれは、模様を形成することなく消えていく。
「そんなん、思ってねえし……、思ってたら、こんな、泣いたりしねえよ……」
涙と同じく消えていった言葉尻を引き取るように赤らんだ目蓋に口付けた。肩が強張ろうが小さな悲鳴が聞こえようが構わずに。
目蓋、耳、頬、額。触れるたび、がちがちの全身から力が抜けていく。
抱きしめたい――頭の片隅で浮かべたと同時に、腰元へ他人の腕が、体温が巻きつく。
微かな震えはきっと気のせいじゃない。
「……っ、俺だって、ずっと……、ずっと、せんぱいに触りたかった……っ」
今度息を詰めたのは俺のほうで。
「きんちょーするくらい許してくださいよ……っ、俺、も、まじでいっぱいいっぱいなんスから……っ」
巻き付いた腕は女のように華奢でも柔らかくもない。細身でも筋トレの成果がしっかりと出ている選手の腕。硬くて骨ばっていて、所々に傷があって。
それでも俺はこの腕が欲しかった。
ずっとずっと、この腕が。この声が。こいつの全部が。
「赤也」
抱きしめられる力よりずっと強く抱きしめ、震えそうな唇を一度引き結び、薄い耳朶の傍へ口元を寄せる。
「抱くから。……触りたかったゆうん、おまんだけじゃなか」
腕の中から伝わったのは一瞬の空白、それから小さな小さな頷きの気配。
音もなく。
柔らかな無音を裂いたのは、ベッドが軋む音。肌が擦れる音。ふたつの心音。心が触れる音。
いつだって隣にいたい
幸福の音が実在するのなら、きっとそれはこんな音なのだと思った。
仁赤創作イプ・お題5