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 だってさ、いつもいつもありもしない夢物語ばかり君は語るから、だからほんの軽い気持ちで口にしただけなんだ。

「きみってほんとうにくちだけだよね」

 君の傷ついた顔なんて初めて見たけれど、それでも僕に傷つけた自覚なんて皆無。皆無。だから当然罪悪感だってこれっぽっちも感じなかった。
 やっとこれで静かに本が読めるとか何とか考えていたんだ。

 だからさ、本当に驚いた。
 新しい頁の三行目を目で追っていたんだ。序章が長かった物語もやっと主人公が殺し屋と邂逅してこれからってところだった。

 君がいない。

 あれ。帰ったのかな。まあいいか。
 僕はいつものようにあっさりと君の不在を受け入れて、分厚い小説の世界へと沈む。

 だからさ、本当に驚いた。
 いつだって君はありもしない夢物語ばかりを語るから、出来もしない願いばかりを語るから、だからほんの軽い気持ちで口にしただけなんだ。

 小説はおもしろかった。久々に当たりだった読み終えたそれを埋まりかけた本棚の端に差し込んだ。
 冷蔵庫の中身がからっぽで、億劫だけど外へ出た。雨音が聞こえたからとんぼ返りして、ビニール傘を手にもう一度戸締りをした。

 マンションの外。コンクリを叩く雨。
 水溜りが鬱陶しかった。靴に染み込んでくる水分に眉を顰めた。あ。カタツムリ発見。
 そんな何気なさの中、壁を這うカタツムリの殻をつついた。殻を剥いだらナメクジになるのかどうかを確かめてみたくなったけれど、 なったらなったで今度は塩をかけてみたくなるだろうから、何もせずにのろのろ行進をじっと見つめた。

 いつの間にかしゃがみ込んでいた僕の左側面に、遠慮なんて皆無な勢いでばしゃりと水がかけられた。 もの凄いスピードで走り去っていく赤いミニバンを睨んでも、濡れた僕と歩みの遅いカタツムリがいるだけだった。

 強い横風に駅の売店で買ったビニール傘が悲鳴を上げる。わたし、もうこれいじょうたえられません。そんな声が聞こえてくるみたいにギシギシと脆そうな骨が軋む。

 閉じたら僕が濡れる。広げていたら傘が壊れる。
 微妙な選択をどこかの誰かに迫られた僕は、強く握りしめていた柄をあっさり手放した。 舞い上がった傘はちょっとだけ空中散歩をした後、植込みの中へ乱暴に投げ飛ばされていった。

 ものの数秒でびしょ濡れになったら、さっきの泥はねなんてほんの些細な出来事に思えたから、 いくら今着ている白シャツがそれなりの値だったとしても、寛大な心を手に入れた僕としてはほんの些細な事と流すことができた(でもさでもさ、これ実は一点ものだったりするんだよね)。

 手放した傘の柄が植込みから突き出していた。足のようにも手のようにも見えた。からかさおばけっていたよね確か。 ひどい、ばけてでてやるから。そんな声が聞こえてくるみたいにカタカタと風に合わせ白い柄は揺れる。

 カタツムリは五センチくらいしか進んでいなかった。
 化けて出て来られても困るから、ひっくり返った傘を助けてあげようと植込みに近づいたら、やたらと白い手が見えた。一瞬傘の一部かと思ったくらい白かった。

 だからさ、本当に驚いた。
 いつもいつも君はありもしない夢物語ばかりを語り、出来もしない願いばかりを語り、そうやって僕の読書時間を悉く奪っていたから。だから、ほんの軽い気持ちで口にしただけだった。

 植込みの陰にひっそりと横たわっていたのは、昨日いつの間にか姿を消していた君だった。

 わんわん泣きじゃくる空を見上げた。見えたのは昨日の昼間に僕が干した洗濯物。あ。そうか僕の部屋の真下だったんだ、此処は。

「かぜひいてもしらないよ」

 澱んだふたつの目がじろりと睨んでくるから、しょうがないなぁと尻ポケットに手を突っ込んで携帯を取り出した。
 人生で初めてになるイチ・イチ・ゼロ。事故ですか事件ですか。そんなことより早く迎えにきてあげてください。

 雨足は強まるばかり。救出した傘を横たわる君の傍にそっと立て掛けた。
 蒼く見えるほど君の肌は真っ白で、純白で、澱んだ暗いふたつの目に映る僕は濡れ鼠よりこっぴどく濡れていて。

 遠くのほうから唸るようなサイレンが聞こえてきた。僕の役目はここまでだと思い、植込みから離れた。カタツムリは二十センチくらい歩みを進めていた。

 何を食べようかな、なんて考えていた僕の横を通過していった白黒の車が水溜りを弾いて、右側面にびしゃりと泥がかかった。 寛大な心を手に入れた僕としてはほんの些細な事だと流すことができた(帰ったらゴミ出しの準備しよう)。

(口だけだなんて言ってごめん)
(君は間違いなく有言実行が出来る貴重なひとだった)

 遅めの昼ご飯を買ったらすぐに帰ろう。それから溜めこんだハードカバーの本を読み漁って、たっぷりフィクションの世界を堪能したら、本棚の肥やしにしよう。
 そうしたらまた次の本を読んで、読み終わったら、さっき読み終わった殺し屋が殺されてしまうオチの本を取り出して。
 この前買ったばかりのシャツに着替えて、もう一度読み返しながらまた濡れ鼠にでもなろうかな(あれは量産品だからさほど痛くも無いけれど)。

 土のベッドは寝心地が良さそうだった。
 横たわる白い君の安堵の溜息が聞こえてくるようだった。





本館を整理していたら出てきた、一年くらい前の日記(SS墓場)から発掘した話でした。
起き抜けで頭覚醒させるために書いたらしいです(他人事)さすが寝ぼけてただけあって…な内容。きみとぼくの性別はたぶん男。