春にけぶる

白くやわらかな光の射す、白い部屋。白いベッドに横たわるエドは両瞼を伏せ、静かに眠っている。
シーツに乗る両手の甲には、昔よりだいぶ目立ってきた青い血管。細くなった手首は、俺の力でも簡単に折れてしまいそうだった。

「…………」

耳を澄ませなければ拾えないほど微かな寝息にホッと胸を撫で下ろし、シンプルな一輪挿しへ向き直った。

――エドが臥せてから、もう二年になる。

俺は思い違いをしていた。正確には、エドという人間に幻想を抱いていた。俺が制服を纏っていた頃からあの激動の日々、 そして今に至るまで『エド』はずっと『エド』で。いつでも、いつまででも、自由に人生を謳歌している人だとどこかで思っていた。
だけどそんなことはありえない。
エドも人だ。怪我もすれば、病に侵されることもある。
そんな当たり前のことを知ったのは、旅先でエドが倒れた時だった。馬鹿みたいな話だけれど、その時まで俺は本当に、エドに限って・と考えていたんだ。

(……ほんとに、ばかだ)

自身へ向け溜息をひとつ落とし、一輪挿しを手に洗面台へ向かう。花びらがやや力を無くし始めた花を取り出し、 細い陶器を傾けた。排水溝へ吸い込まれていく水をぼんやりと見送りながら何気なく顔を上げれば、 シンプルでも程よく品のあるこの部屋にはあまり合っていない質素な鏡に、薄い隈をこさえた俺の顔が映る。

「……酷い顔」

ぼそっと呟けば、鏡の中の俺もカサカサの唇を動かした。
あまり自分とは思いたくない疲れの滲んだ正面の人物の左奥には、さっきと変わらず眠るエドの姿がある。寝顔とはいえ、その外見は当然昔より歳を重ねている。

毎日顔を合わせているというのに、今更実感した。
あれから随分な時を重ねてきたのだと。
俺も、エドも、歳を取ったのだと。
俺は、初めて会った頃のエドの歳をゆうに超え、エドは、もう顔も朧気なヘンリー・ウーと同じくらいの年齢に見えるようになった。

随分長い間、俺達は一緒にいた。
エドは俺を色んな場所へ連れ出してくれた。たくさんのものを見せてくれた。良い事、悪い事、たくさんあった。
たくさん、たくさん、気持ちを傾けてくれた。すべてじゃないだろうけれど、たくさん心を見せてくれた。

(……ごめん、エド)

自然と浮かんだ謝罪を嚥下し、鏡から目を逸らした。水道のレバーを引けばチロチロと水が流れ出す。 どうかこの想いも一緒に連れて行ってくれと、排水溝へ消えていく水へ願わずにはいられなかった。

エドは俺にたくさんのものをくれたのに。今も、与え続けてくれているのに。
それなのに俺は、エドが一番望むものを知りながら、それをあげることが出来ない。どうしても、出来ない。

「……、……」

白い陶器が濡れていく。浸し続ける右の指先も赤らんでいく。冷たいのか痛いのか、それすら曖昧なほど感覚が遠くなっていっても、レバーを戻す気にはならなかった。

たったひとつ。
望まれているものは―言葉は、たったの一言。

奥歯を噛み、口内へ沁みた苦味を誤魔化した。軽く頭を振って花瓶の半分ほどまで水を注ぎ、流れを止める。 赤くなった指先が今更じんじんと痛みだしたけれど、気にしないふりをした。タオルで軽く表面を拭きながらシンクの 淵に立てかけていた黄色の花を見やれば、水を奪われたことでより一層俯いてしまっている。

物悲しい光景だった。葉も花もくたびれ、滴る水でさえ寂しい。きっと今すぐ水を与えたところで、この花が再び前を向くことはないのだろう。

「ごめんな」

終わりかけた命をそっと手に取り、足元のゴミ箱へ横たえた。ごめんなとありがとうを伝えても、この花へはもう伝わらないような気がした。

後ろ髪を引かれながら洗面台を離れ、ベッドの傍へ戻る。サイドテーブルには今日持って来た一輪のオレンジの花が活けられる時をひっそりと待っていた。
水滴の消えた花瓶を静かに台へ置き、まだ咲きかけの花を挿し入れる。口に引っ掛かってしまった葉を摘まんだ時、 不意に右腕に何かが触れた。見なくてもわかる。だから、振り向く前に花瓶の向きを変えた。ちょうどいい角度はもう感覚が知っている。

「……起きたの、エド」
「ああ。……きれいな花だね。明日には咲きそうだ」

俺からは横顔しか見えなくなった咲きかけの花へ、エドはふわりと微笑みかけた。
やわらかく歪むその目元には優しい笑い皺。ずっと見てきた筈なのに、改めて意識したその皺に少し胸が軋んだ。

「今日もありがとう、マキ。毎日買ってくるのも大変だろう?」
「まったく。ああでも、おかげで花屋の奥さんとは仲良くなったかな。その日のおすすめの花を教えてくれるんだ。今日はこの花がいいって勧められた」
「へえ。なら僕はそのマダムにも感謝しないといけないね。今日の花も僕の好みをよく捉えているよ」

きれいだ、ともう一度重ねるその表情はほんとうにやわらかくて、本心を口にしているとよくわかる。俺までつられて目を細めてしまうくらいに。

「エド。身体の調子は? どこか苦しいところとか……」
「いいや。頗る快調だ。このまま散歩にでも出られそうなくらいに」

花から俺へと移された目に嘘は見えない。臥せってからあまり外へ出たがらなくなったエドにしては珍しい反応で、驚きながらも俺は素直に頷いていた。

「先生に訊いてみようか。今日はいい天気だし、それにだいぶあったかくなったから」

未だ右腕の袖をちょこんと摘まんでいた指を丁寧に外していると、薬指に差し掛かったところで待ったがかかった。

「……魅力的だけれど、やっぱりいいよ。ごめんね、マキ」
「……? どうして。たまには外の空気もきっと気持ちいいよ。花壇の花も咲き始めたし、そういうの見るだけでも気分転換に……」
「いいんだ。花はここにあるしね」

説得を遮り、その視線はまた俺の横を通り過ぎた。解いたはずの指がゆっくりと折られていく。俺のとは違うアクアブルーの瞳の中には、小さな花の影が映り込んでいた。

「……ああ、本当にきれいだ。明日が楽しみだね」
「……、……うん。そうだな」

何も言えなくなってしまった。
横顔があまりにも、やさしくて。あまりにも、さみしくて。

「ねえ、マキ」
「……、……何、エド」

ああ、くる――。

過った確かな予感に、頭の片隅で、心の奥で、静かに静かに、何かがひび割れる。

「明日も君は、僕の傍にいてくれるのかな」
「当たり前だろ」
「咲いたこの花を、君と見ることはできるのかな」
「独り占めなんてさせないよ」

エドの声以外の音が、波が引くように消えていく。
やわらかく弧を描いたままの目が此方を見上げることはない。明日には咲くだろうオレンジの花を捉えたままだ。

「ねえ、マキ」

予感は少しずつ現実味を帯びてくる。音の消えかかった世界で俺は、俺の――エドの、心が軋む音を確かに聴いた。

「君の逃げ場を奪った僕を恨んでいる?」
「……エドにはたくさん良くしてもらったよ」
「僕はとても狡かったね。今も、とても狡い。きれいな君を腐らせてしまう程度に、汚い」

声音は変わらない。紡がれる言葉はこんなにも痛いのに、やさしさから生まれてくるような声だった。

「でもね、マキ。僕は君が、明日も傍にいると約束してくれたことが嬉しい。今眠っても目覚めた時に君がいてくれると思えば、目を閉じることも怖くないんだ」
隙間風が俺とエドの間を流れていく。視界の端で、窓際のカーテンがふわりと揺らいだ。

「手放さないと……って、何度も考えてきたのにね。次に目覚めた時、君の姿がなければ。花瓶の花が枯れたら。 ……だけどいつも、僕が目を覚ました時に君はここにいるし、枯れる前に花を活け替える。狡い僕は、一向に叶わない『たられば』に安堵する」

嘘じゃないよ、と目元を緩め、くすくすと笑う。

「君の望む幸せな結末を奪っておいて。……こんなことだから、彼になかなか信用してもらえなかったのかな」

エドがこっちを見ていなくてよかった。
名を伏せられた『彼』が誰なのかなんて考えなくてもわかる。俺もエドもいつしか口に出さなくなった『彼』の名は、 その存在は、今も俺の中にしっかりと残っている。忘れるどころか、日を重ねるに連れ鮮やかに、消えない傷として。

漣のように拡がる動揺を、唇を噛み締め飲み込んだ。
悟られてはいけない。きっとエドは気付いてしまうだろうけれど、それでも隠す。
開きかけた蓋をきっちりと閉め、心の奥底へ追いやった。
しまいこんだ『大切』を見失えなくても、俺にできる精一杯で、誠実でいたかった。

「君の失意と引き換えに君を得た僕は、天国へはいけそうにないね」
「……そういうこと、言うな。冗談でも許さない」
「ふふ。……ねえ、マキ。君は僕のこと、少しは好きになってくれたかな……ただの友人だった昔より、少しでも」

ひび割れが、軋みが、大きくなる。

――俺は、エドの望む言葉を知っている。わかっている。

たくさんのものをくれた。今も与え続けてくれている。この胸にあるのは、何かを返したいという想い。 やさしいものをあげたいという願い。やさしいエドに、やさしくありたい。やさしい存在でいたい。

誰よりも近くにいてくれたエドだから。
誰よりも俺を解ってくれている、エドだから。

だから俺は。だから、今日も、唇を開く。声の出し方を忘れないうちに、喉が憶えてしまった言葉を紡ぐ。

「……昔からずっと、変わらないよ。俺は、エドが大切だよ」

花ばかりを見ていたアクアブルーが漸く俺を見上げた。
右腕を捉えるささやかな拘束が、僅かに緩む。

エドの目に映る俺は、今、どんな顔をしているんだろう。
どうか、どうか、歪んでいくばかりの視界には気付かないでほしい。
どうか……零れそうな本音を、掬わないで。

「……知っているよ」

眉を下げ、エドは笑った。
震えない声の代わりに、指先へそっと力を籠めて。

傍らで、夕陽色の花が揺れていた。
どうしても動けない俺達を笑うように、悲しむように、揺れていた。



先割れさんのお誕生日&フォロワーさんのエドマキ熱に巻かれ(笑)、初エドマキ書いてみました。
エドマキすきですが見るからに幸せ!という話をまったく思いつかず、最終的に↑こういうのに行き着いちゃいます。エドマキすきです(大事なことなので二回)