吸血鬼パロ - 西洋版


※完 全 内 輪 ネ タ で す 。
※ツイッターで垂れ流した妄想を某さんへ贈るためぶつ切りで形にしたもの。唐突に始まり、唐突に終わります。場面変化も唐突です。説明もほぼありません(…)
※設定…仁王/吸血鬼、主様。赤也/蝙蝠、眷属。幸村/吸血鬼。真田/黒鷲、眷属。
※さらっと流してやってください。深く考えず、さらっと




ひた、ひた、ひた。

耳鳴りがするほどの静けさを、ひとつの足音が裂いていく。忍ぶような、潜めるような、重なるごとに息が詰まるような音。

闇しかないここでは耳以外頼れるものがない。
足音が近くなる。それを膚で感じ、握りしめた拳をぎゅうっと胸元に押し付けた。油断すると心臓が口から飛び出そうだ。限りなく落とした呼吸にさえ、気を緩めた途端気付かれてしまいそうな気がする。

ひた、ひた、ひた。

さっきより今。今より次。次第に聞き取りやすくなっていく足音と自分の心音とが同調する。暴れる心臓をシャツの上から押さえ付け、抱えた膝を限界まで引き寄せた。

まだ動けない。動いてはいけない。
もっと、もっと。もっと、近付くまで。この拳が届く距離まで――。

「――……」

粘りつくような汗が背中を伝う。
一歩一歩、着実に距離は詰まっている。身を隠した此処へ、確実に。

音が近い。息遣いが空気を介して伝わってくる。辺りを窺っているような気配は、もうすぐそこだ。

もう少し。もう少し。

胸を押さえていた手を解放し、傍に置いていた得物の柄を掴む。

極限まで殺した息。
迫る足音。
光の欠片すらない暗闇。
気が触れそうな静寂。

耐え抜いたすべては、今、この瞬間のため――!

「そこまでッスよ主様――!」
「ッ!?」

溜めていたものを爆発させるように立ち上がり、勢いを殺さず前方へ踊り出る。闇の中へ突き出した得物に手ごたえは伝わらない。躱されたらしい。ちくしょう。

空ぶった右手を戻し、目を凝らす。
深い深い黒に包まれている周囲。眉相に強く力を寄せた時、見計らったように暗闇一色の此処――書斎奥の隠し部屋――に、薄らと月明かりが射し込んだ。

蕩けそうなほど柔らかな月光。淡い蒼白の光に、同色の糸……否、糸のように細い髪が反射する。

すべてを取り込み掻き消してしまう黒をものともせず、燦然たる存在感を放つ長い髪。血色の無い頬、頸。結ばれた薄い唇。
憑かれたように見入ってしまいそうになる。この《主》の相貌など、もう何百年も間近に見ているというのに。

「……はあ……おまん、またか」

不意に、溜息混じりの呟きが落ちる。

「またってなん……」
「とりあえず、それ、しまいんしゃい」

ずばりと遮り、空気を揺らす。伸ばされた長い指は、収めたばかりの右手を――そこに握っているオタマを指していた。

「ほんにおまんは横暴じゃのう。もっとしとやかにせえ言うとるんに」
「誰のせいだと思ってんスか。俺だってこんなことしたくないっつの」
「なら」
「でも! ほっとくとヘンな時間に、バカみたいな量のボトルばかすか空けちまうアホ主様見張ってないとダメなんで!」

びしりとオタマの先を向けてやる。慣れてきた暗闇の中、件の阿呆な主様は興が醒めたと言いたげに肩を落とし、明後日の方角を見た。

この方はいつもこうだ。都合が悪くなると、すぐに目を逸らす。

腹いせ代わりに、宙で止めたオタマをその頬にぐりぐりと押し込みながら、ぶつぶつと小言を落としてやった。内容はいつもとまったく同じだ。酒は夕食の時に。どうしても欲しいのならベルを鳴らせ。こうして盗人のように浚っていくのはやめろ。―恐らく主様は耳にたこができるほど、口にするこちらは舌が痺れるほど繰り返した内容だ。

「ったく。毎晩おんなじこと言わせんなって」
「言わなきゃええじゃろー」
「主様がちゃんとしてくれりゃ言わなくて済むの! ほら、はやく部屋戻りますよっ! 寝酒したいんなら俺がなんかあったかいの持っていきますからっ」

不服顔の主様の背を押し、隠し部屋から書斎へと出る。ワインセラーと化している隠し部屋と、図書館ばりの書籍量を誇る書斎とでは、流れる空気が違っていた。隔てるものは扉一枚、距離にして僅か数歩なのにと、いつも不思議に思う。

背に添えた両手任せに歩く我が主を見上げた。

一昔より同族と相見える機は減ったとはいえ、未だこの方以上の格や美を備えた同族を、俺は見たことがない。

同族――吸血鬼。人間にはそう呼ばれ、忌み、恐れられている化け物。
俺は《吸血鬼》とは違う種の《化け物》だけれど、主様は元々の数が極端に少ない純血の吸血鬼だ。

すっかり希少種になってしまった純血種でも、主様はそれをおくびにも出さない。仲間に会いたいとも言わない。自身では笑い話にしているけれど、長く生きすぎたせいだと言いながら血すらも求めない。

吸血鬼にとっての血液は生命線のようなものだ。
水であり、食物であり、細胞を形作る要であり。いくら不老不死の躰とはいえ、生命線を断って自身を保っていられる筈もない。

俺の仕事は、主様を健やかに保つこと。
厭う素振りすら見せるこの方に、生命を保つ為の源である血液を流し込むこと。永い時間をかけて独りになってしまったこの方に、いつでも、いつまでも寄り添うこと。――それが俺のお役目だ。

それ自体が牢のような、要塞のような深く昏い森。その奥に聳えるこの城に、もう数百年以上そんな主様と二人きりで居る。
数えるのも困難なほどの永い歳月を、この美貌の主と共に過ごしてきた。この方に付き従う前、自分がどこで何をしていたのかを忘れてしまうくらい、長く永い時間を。

(……違う。ちゃんと覚えてる。はじまりだけは、ちゃんと――)

両手にかかる体重を受け止めながら、薄く唇を噛んだ。

遠い遠い邂逅の思い出は、夢のように甘く淡く、けれど鮮やかで、ほんの少しだけ苦い。
毎夜、微睡みのうちに反芻したいほど宝物のような記憶だけれど、思い出そうとすると、どうしても痛みを伴う。

誤魔化しの利かない小さな痛みを堪えていると、手にかかっていた圧迫がふいに消えた。掌から離れた背が薄ぼんやりと見える。
隠し部屋と同じくらい静寂に満ちた廊下に、月のような髪がふわりと舞った。

「……寝酒、おまんも付き合いんしゃい」
「……あ……」

くしゃり。
宥めるように頭を撫でる大きな手。

何も言っていないのに。きっと触れていた両手にさえ、過去の痛みなど伝わっていなかったはずなのに。

「眠ぅなったら俺んとこで寝てもええ」
「……、そんなの、ダメっすよ。主様のベッドでとか……ダメ」
「廊下に放り出せ言うならそうしてやらんこともない。好きにせえ」

この方はそんなことをしないと、どこかで解っている自分がいる。
好きにしろと言いながら、ただの従属でしかない俺に自分の寝床を譲ってしまうのだ。酷く優しく、容易く。

髪を梳く手が泣きたいほど心地良く、自然と目蓋を伏せていた。
何も映さなくなった視界の裏では、甦りかけた過去の記憶がシネマフィルムのように流れていく。けれどそれも、往復する掌に溶かされたのか、どんどん容を保てなくなっていく。

俺はこの手がすきだ。

世界で一番やさしい手。
世界で一番冷たくて、掛け値なしにあたたかい手。

「……酒。あったかいのでいいんですか?」
「なんでもええよー」
「なんでも? ほんとに? 文句言わねえ?」
「気に入らんかったらおまんに回すき、なんでもええよ」
「ははっ、ひっでえの」
「オタマでひとん頭カチ割ろうとした奴ん台詞じゃなか」

軽口につられ目を開けた。
視界が開けても暗い廊下の真ん中で、やさしい手の主は呆れたように小さく笑っている。

俺の主様。
身も心も魂も、過去も未来も、俺というすべてを縛るひと。
縛られてもいいと、思えたひと。

「主様主様、はやく部屋戻りましょ?」
「なんじゃ急に元気んなって……引っ張んな、手ぇ千切れるー」
「千切れたら俺がくっつけてあげますよーだ! はやくっ」

主様。

俺の光。俺の影。俺の心臓。俺のすべて。

この世のなにより大切な、俺の。



   ▽



目蓋を閉じると鮮明に蘇る。
あの微笑。あの波打つ美しい髪。あの獰猛な爪と嘴。あの敵意に満ち満ちた眼――。

「――……っ」

寒気までもが蘇り、息を詰めてしまった。
両腕で躰を掻き抱こうとしたけれど、すぐに諦めた。そんなことが出来る筈もない。俺は今、人型を保っていられないほど消耗しているのだから。

抱こうにも肉厚な腕がない。あるのは薄く醜い翼と、美しさとは程遠い躰、牙、盲いた眼だけだ。

(変化できれば、見えるのに……)

吐いた息すらもか細い。それはほんの僅かな振動だったけれど、溜息が自らの耳に届くより早く、突き刺すような痛みが全身を襲った。

「……っ」
「赤也? ……どうした」

優しい感触が降ってくる。痛みに耐えていた両目を薄く開けても何も見えないけれど、そこに何があるかは手に取るように分かる。おそらく、満月を思わせる吸い込まれそうな琥珀の瞳に、じっと見つめられているのだ。

きっとそれはきれいだ。とても、とても。

髪や肌は月光、瞳も月。色味は違えど、主様のすべては月の恩恵をたっぷり受けているのだと、俺はそう思う。

その満月が随分と大きく、けれどどこか弱く感じるのは、俺が元型で、実物が見えていないからだろう。
俺の視力がまともに利くのは人型の時のみだ。
視力を与えてくれた時、主様は「元型の時にも見えるように」と言ってくれたけれど、俺自身がそれを拒んだ。この姿に戻ることなどもうないと、はっきり言い切って。

冷たくもあたたかい、やさしい掌に包まれながら、そのことを少しだけ悔やんだ。

だって、見えない。今の主様がどんな表情をしているのか、どんな眼で俺を見ているのか――どんな心持ちで、あの恐ろしく強かった黒鷲に裂かれた醜い翼を撫でてくれているのか、何もわからないから。

「どっか痛むんか」
「……、……」
「翼か? もうちっと辛抱しんしゃい。すぐ治してやるき」

違うよ。確かにこの翼は裂かれ、破れたけれど。

血塗れの小さな俺を見て、いの一番に主様自らが癒したというのに。
だからもう翼に治癒する箇所はない。傷も、その名残りもない。
あるのは痛めつけられたという記憶だけだ。あの大きく強靭な嘴に貫かれ、引き裂かれたありもしない傷が、記憶の反芻と共に痛むだけだ。

説明しようにも、今の自分に人語を語る術もなく、目で伝えようにもこの盲いた眼では何も捉えられない。

どうすることも出来ず、ただ、ただ、鼻を鳴らした。
それは思う以上に情けなく、泣きたくなるほど弱々しく響いた。聴いた主様はどう感じたのか。もしかしたら、またありもしない怪我の心配を深めてしまったかもしれない。

怪我はない。血を流した内外の怪我すべて、主様が治癒してくれた。
だから平気だ。呻いたのは傷の痛みからじゃない。

そう伝えたいのに、翼や胴を滑る労わりに満ちた指の感触が心地良すぎて、思考すら流されそうになってしまう。

こんなに醜く、痩せっぽちで貧弱な獣なんて、見放してしまえばいいのに。
高貴という言葉すら追いつかないほどの高みにいる主様には、眷属ひとりくらいの命、きっとそこらの小石と変わりないはずなのに。

「……おまんはアホぜよ」
「……、……」
「じゃからしとやかにせえ言うとったんに」
「……」
「いつも通りムリくり起こせばよかったんに。普段はやめえ言うても叩き起こすくせに……こんなボロカスんされるまで、耐えることなかったんに」

声が哀切を帯びる。聞き取れるすべてに耳を澄ませた。感じ取れるすべてに意識を集中させた。
耳の付け根を撫でていた主様の指に、少しだけ力が加わった。

――を、――してやる。

極々小さな音だった。空耳か風の音か、はたまた耳鳴りの類かと思うほど小さく、不安定な響き。

(主様……?)

膚に触れる指に擦り寄り先を促す。
言いたいことは伝わったはずだ。自惚れではなく、主様なら汲み取ってくれて当然。この方は、声にならない声を拾うことに長けているのだから。

そう考えたのも束の間、

「――あいつらを。殺してやる」

呪詛を、呟いた。

「おまんの翼を裂いた嘴を手折って。穴だらけにされた翼とおんなしように、あの翼の羽一本一本剥いで」

いつもいつも小馬鹿にするような響きで、けれど涼しく耳に優しい澄んだ声は、低く昏く沈み。

「命令した喉裂いて。あの薄笑いも、なんもかんも全部、消して」

両翼を動かす気力があれば。鉤爪でなく、五指があれば。

そうすればきっと俺は、耳を塞いでいた。この世で一等好きな主様の声で紡がれる呪いなんて、聞きたくなかった。

落ち着いて。俺は大丈夫。
翼も治してもらった。もうどこも痛くない。
生きてる。もう少し休めば、いつも通り変化もできるよ。

声とは裏腹に、変わらず優しい指遣いが殊更痛い。
身の内に溜まるだけの言葉を少しでも伝えたくて、その指に頭を押し付けた。

「……のお赤也」

――はい。主様。

「純血殺しは大罪じゃろ」

――……うん。

「けどな? 俺はそんなんどうでもええんよ。外ん奴らなんかどおでもよか。何しようと口出しせん。じゃから、なんも干渉すんなー言うてきた」

――うん。知ってるよ。だから主様は独りなんですから。

そうだ。いつだって主様は独りだった。孤独を愛しんですらいた。
こんな風に、他者のことで感情を乱すようなひとではなかった。

なのに。

「せやのに、土足でずかずか来た挙句、おまんを殺しかけて? 随分な挨拶じゃ思わんか」
「……、……」

人語を発せない云々以前に、喉が焼かれたように乾き、音が死んだ。

主様が怒っている。

端的な表現しか浮かばない。けれどそれ以外思い様もない。
耳や頭や翼を撫でる手付きは、こんなにも労わりに満ちているというのに。その声や察する雰囲気は、今この方が抱える感情が生半可なものではないと物語っている。

どうすればいい。どうしたら鎮められる?

あってはならないのだ。純血同士の諍いなど、決してあってはならない。危うい均衡をなんとか保っているような主様の同族達に知れたら、きっと容易く内紛にまで発展してしまう。

きっかけなんて何でもいいのだ。
永遠に近い寿命と絶大な力を持つ彼らは、常に退屈している。その退屈を紛らわせる《何か》を、千里眼にも似た広い視野を誇る眼で探して、狙っているのだから。

俺の務めは主様を健やかに保つことだったはず。
健やかに、穏やかに。長く永い生を、少しでも安らかに。

(ダメだ。しかも俺のせいなんかでそんなことになったら……絶対、止めねえと……!)

焦燥ばかりが募る。疲弊しきったこの身が憎い。

どうして肝心な時にこの喉は、この口は、主様に伝える術を持たないのか。
どうして。どうして。

「赤也。おまんはなんも心配せんと、ゆっくり、ゆっくり、養生すればええ」
「っ」
「何年でも、何十年でもかけてええよ。……おまんの小言が懐かしい思うくらいの時間、かけてもええ。ゆっくり治して、またぶつくさ文句言えるようなればええ」

触れる指が優しいから。
涙なんて作られないこの眼の奥が、じんわりと滲んでしまう。

「そうじゃのう……隠し部屋の酒が無うなる前に、全部片つけたる」
「――っ」

声が。あまりにも澄んでいて。

「俺ん寝酒に付き合えんのは、おまんしかおらんき」

盲いた眼でも、解ってしまった。

主様が今、どんな表情で、俺を撫で、見つめているのか。

落とす言葉の意味には到底不似合いな、柔らかい声だったから。



   ▽



生温い風が、完治した翼を撫でていく。
森の奥で梟が鳴いた。ここは危険・立ち去れ――そう仲間に知らせている。ほど近くで起こる異変を、声高らかに叫んでいる。

「――へえ。まだ命を繋いでいたんだね、その子」

凛然と佇む吸血鬼は、そう言って微笑した。

怖い。
何が恐ろしいのかも見失うほど、怖い。
心臓でも命でもなく、魂を掌握されてしまったように、身動きが取れなくなる。

知らずのうちに震えていたらしい躰を、そっと包むものがあった。

一気に冷え切ってしまった躰に響く鼓動。やさしい音。
主様の、心音。

(……主、さま……)

全身をすっぽりと包む左手があたたかい。溶けそうなほど。一定を刻む音に、恐怖すら霧散していく。呼吸がし易くなっていく。

「ああ、すまない。怯えさせてしまった? そんなつもりはなかったんだけれど……」
「今更じゃろ。よおツラ見せられたもんじゃのう」
「沙汰の絶えた仲間の存命を確かめにきただけだよ。元気そうで何よりだ。――仁王」
「おまんも変わらんのう。――幸村」

耳で拾うやり取りは、旧友に再会した時のような気安さなのに、確かな不穏さを滲ませている。たとえこの眼が見えていたとしても、感じるものに大差はなかっただろう。

傷はとうに癒えた。
だから早く。早く、主様の隣に立てる肉体が欲しい。
今この瞬間、あの恐ろしい者たちと対峙する主様の盾になりたい。

早く。早く――気ばかりが急く。

こうしている間にも、あの鋭い嘴が主様に向かってきそうで。引き裂いてしまえと、柔らかな命令が下りそうで。

怖い。
主様と同じ存在である吸血鬼より、獰猛な嘴や爪より、主様の血の香を嗅ぐことが何よりも、おそろしい。

「――赤也」
「……っ」
「じゃから寝てろゆうたんに……中入っとけ。すぐ済む」

呆れたような、心配しているような、なんとも言えない複雑な声が落ちた。すぐだと言いながら身を包む手が動き、暗い外套の内側へと運ばれてしまう。

違う。
怖かったのは確かだけれど、隠れたいわけじゃない。

必死に訴えても遅い。俺を運んだ手はもう離れてしまった。

納められた布が全身に纏わりつき、自由を奪われる。
普段は避けがちなくせに、こんな時ばかりシルクのシャツを着るなんて卑怯だ。好みの綿なら、こんなに足を取られることはないのに。

蝙蝠族の足は弱いと知っての選択だとしたら、人型に戻ってすぐの朝食はにんにくのオンパレードにしてやる――沸々と湧き立つお門違いな恨み言を内心に蓄えながら、動きを制限する滑らかな布を掻き分ける。

暫く奮闘すると、漸く外気を吸い込めた。
息苦しさからの解放に安堵したのも束の間、鋭い風切り音がすぐ傍を横切っていった。

「っ、ほんに相変わらずじゃのう。もうちっと辛抱きかんのか、おまんとこのソイツ」

揶揄するような声と同時に足場がぐらりと揺れる。咄嗟に鉤爪で外套の布に捕まり振動に耐え、素早く辺りの気配に耳と神経を澄ませた。

たぶんあいつだ。あの黒く巨大な鷲。……血の匂いはしない。

――主様、大丈夫? ケガしてねえ?

咄嗟のことで反響定位を使ってしまったけれど、周囲の状況は見えても同族でない主様に思いが伝わるはずもない。
軽く舌打ちをして二波に備えた。あの禍々しい爪が主様に突き刺さったら――考えただけで気が狂いそうになる。

「ふふ。すまない、この子は驚くほど短気なんだ」
「おまんあってのそん眷属じゃしのう。反吐出るほどそっくりぜよ」
「君が言えたことかい? 見たところ君の可愛い子は未だ全快には至っていないようじゃないか。――吸血鬼としての誇りや生、絆までを捨てた君に似て、とても脆弱だね」

揶揄どころではない。完全な嘲笑だった。

どくん、と心臓が高く鳴る。
あの鷲が大きく羽ばたいた音が届いた。けれどそれよりもっとずっと大きく、自分の鼓動が全身に響き渡る。

馬鹿にされた。
主様を。俺の、大事なひとを。

主様がどんな気持ちで……どんな想いで、この数百年を生きてきたか、知りもしない奴に。
ただ同族と、ただ純血種というだけの、他人に――。

「――……、……」

喘ぐように開けた口から、音とも空気ともつかない何かが這い出ていく。

許せない。許せない。許さない。

脳から全身へ同じ言葉が巡っていく。
血液が沸騰しそうだ。いつかの……襲撃を受けたあの夜のように。

「っ、……? 赤也、どうした」

いち早く気付いたのは主様だった。

ああ、でも、その声さえ、遠い――。

ぐらぐらと煮え立つ血が翼の隅までも行き渡り、かっと眼を見開いた。
瞬間、視界が白む。何も見えなくなる。

否。見えた。白んだ、と頭で理解できた。

「……っ! ば……っ、おま」

主様が短く叫ぶ。咎めの中にほんの少しだけ安堵を乗せて。

ゆっくり、ゆっくりと、目蓋を持ち上げた。
映り込んだのはどこまでも暗い空と月。両足には大地の感触。
右手を翳せば、そこに鉤爪はなく、望んでいた五指がある。

「……はあ……」

深く長く息を吐き出した。
久方振りの変化は怠さを伴う、らしい。うまく感覚が戻ってこない。

「――赤也……はあ……」

呼ばれ、緩慢に振り返る。声と同じくどこか疲弊した表情の主様は、変化を成した俺を一心に見つめていた。

「なんでこんタイミング……もうちっと辛抱しとけば……」
「そんなんムリっすよ。だって、ムカついたんだもん」
「……怪我は」
「とっくに治ってるっつの。主様が治してくれたじゃん、全部」

月光を背負う主様の瞳の中心には、俺しか。
漸く光を捉えた俺の瞳の中心には、主様しか。

溶けそうな琥珀が緩やかに歪む。

大丈夫なのか。そう問われている気がした。
大丈夫。そう瞳で返す。

感情の昂りで叶った変化だけれど、成した今、沸点を超えた怒りは何故か静かだ。きっとこうして再び主様の瞳の色を覗けたことも一因だと、お互いしか映さないまま薄く思う。

唇を動かし、喉を震わせれば、言葉が届く。
もうずっと当たり前になっていたそれが叶う。届くというだけで、同じものを目に映せるというだけで満たされる感覚。

眷属の誓約を交わした遥か昔に置き忘れていた想いを、改めて感じることが出来た。

「珍しいものを見たな。変化の瞬間を目の当たりに出来るなんて、それだけでもこんな山奥に足を運んだかいがあるというものだよ」

生温い夜風に柔らかな笑い声が乗る。
体勢を戻せば、惹き込まれそうなほど流麗な笑みを湛えた純血の君が、その肩に乗せた眷属の翼を撫でたところで。

「べっつに珍しくねえよ。その鷲だって変化くらいできんでしょ」
「ああ。そうなんだけどね。この姿のほうが性に合っていると言って、なかなか変化してくれないんだ」

話し相手には事欠かないから不便はないけれど。

そう言ってまた笑う。獰猛な猛禽類を眷属に加えるような攻撃性や澆薄さは、その笑みからは一欠片も窺えない。

それだけに恐ろしい。この純血の君は微笑みのまま「壊せ」と命じることが出来るのだから。俺はそれを、身を持って知った。
だからこそ一分の隙も見せられない。この背の向こうには、何より大切な主君と、その城がある。

貶すもの、侵すもの、揺るがすもの、すべてから護ると誓った。

主様と。主様を取り巻くすべてを。
そのためにまた、この足で立ったのだから。


書きたい所だけを抜き取ったらこんなことになりました。某さんには謝り倒しました。
おそらくこれ続きます。続くというか、これをベースに…いろいろと…やる予定、です(ごにょごにょ